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コンストラクティヴィズムの分析射程
日本国際政治学会2003年度研究大会
部会11 コンストラクティヴィズムをどう考えるか
コンストラクティヴィズムの分析射程
―――理論的検討と規範の衝突・調整の事例分析―――
大矢根 聡
同志社大学法学部
soyane@mail.doshisha.ac.jp
はじめに
コンストラクティヴィズムは、1990年代初めまでは周辺的な位置にあったものの、今や中心的な理論的枠組みのひとつになっている(Katzenstein,Keohane,Krasner)。
この理論的枠組みの意義については、コンストラクティヴィストとネオリアリスト(もしくは合理主義者)との間で、激しい論争が展開された。
しかし、それも収束しつつある。
本報告では、この時点において、あえて醒めた目でコンストラクティヴィズムを再検討し、その分析射程を考える手がかりを示したい。
というのも、コンストラクティヴィズムについては、なおも誤解や歪んだイメージがあり、とりわけ日本では、この分析枠組みをどのように受け取るべきか、戸惑いがあるように思われるからである。
そのため、第一に理論的検討を行う。
その際、コンストラクティヴィズムに対して広く抱かれていると思われる、素朴だが当然の疑問を、照準を絞り込んでゆく格好で取り上げ、検討してゆきたい。
すなわち、(1)コンストラクティヴィズムは、なぜ過剰なほど抽象的、哲学的なのか。
それは、そもそも有益なことなのか。
これは、コンストラクティヴィズムの一般的な特徴として、広くイメージされ、疑念を抱かれている点であろう。
(2)コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムやネオリベラリズムの理論的オールタナティヴなのか。
そうでないとすれば、何なのか。
コンストラクティヴィズムは、とりわけネオリアリズムに対する批判として登場したのであるから、当然の疑問である。
(3)コンストラクティヴィズムは、因果関係を教えてくれるのか。
そもそも十分に実証的な分析はできるのか。
これはネオリアリズム、もしくは合理主義が最大の問題とみる点であるし、歴史実証的研究を重んじる日本では、とくに問題になる点でもある。
(4)コンストラクティヴィズムに今日的な意義があるとすれば、何なのか。
コンストラクティヴィズムが台頭したのは、研究の実践上の必要に応えてのことであろう。
コンストラクティヴィズムは、それに十分に応えられるのだろうか。
本稿では、第二に、以上の理論的検討を踏まえて、事例分析を試みたい。
それによって、コンストラクティヴィズムの知見の幾つかを検証し、また、今日的な研究課題に応えられそうなのか考えてみたい。
ただし、この事例分析は研究の途上であり、研究構想の素描程度にとどまらざるをえないであろう。
事例には、「貿易と環境」をめぐるGATT・WTO協議をとりあげる。
なお、コンストラクティヴィズムには幾つかのタイプがあるものの、本報告では「従来型コンストラクティヴィズム」(Katzenstein,Keohane,Krasner)、もしくは「自然主義的コンストラクティヴィズム」(Ruggie1998)と称される、実証分析を是認するタイプを取り上げる(ポスト・モダン、フェミニズム、批判理論などは扱わない)。
1.コンストラクティヴィズムとは
まず、コンストラクティヴィズムの内容を確認しておきたい。
その特徴は、次の4点であろう。
第一に、アクター(主体、エージェント)と国際的構造とが、相互に作用すると考える。
すなわち、国際的構造がアクターの行為を拘束するという、「規制」的な作用だけでなく、逆に、アクターの行為が国際的構造を成立させる、「構成」的な作用に着目する(Wendt1999;Ruggie1998-b)。
逆に言えば、コンストラクティヴィズムは、とくにネオリアリズムによるアクター中心の分析を否定する。
アクターをとりまく国際的構造を視野に入れ、これをアクターと同等の存在感のあるものとして、同等の比重で分析するのである。
これはコンストラクティヴィズムにおいて、しばしば(いささか過剰な表現に思えるが)「存在論」と称されるポイントである。
コンストラクティヴィストは、アクターと国際構造とが、「存在論」的に同等であり、両者は相互に支えあって始めて存立しているとみる。
第二に、その相互作用のなかでは、アクターによるパワーや利害の認識、さらにはその認識を枠づけるアイデンティティさえ、国際的構造の影響を受けると考える。
もっとも、その認識やアイデンティティは、国内からも作用を受ける(Wendt1999)。
逆に言えば、コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムのようにアクターの選好を所与の前提とし、その由来を問わないのは、誤りだとする。
すなわち、第三にコンストラクティヴィズムは、物質的なパワーや利害だけでなく、規範や理念、認識といった「概念的要素」を重視する。
そうでなければ、例えば、アメリカが同じ核兵器であっても、イギリスのそれを問題視せず、北朝鮮の初歩的な核を脅威とするのは、十分に説明できないと主張する。
したがって、第一点に述べたアクターと国際的構造との相互作用は、概念的なレヴェルで捉えられる。
アクターAの行為がアクターBにシグナルとなり、Bはそれを解釈してAに反応することで(例えば、敵対的な行為だと解釈し、敵対的な仕方で反応する)、Aの行
為に一定の意味づけ(敵対的行為)がなされる。
この過程が反復されて、アクター間に「共
有の認識」が成立し、それが国際的構造となるとみるのである(ここでは対立的な国際システムが成立)(Zehfuss)。
このアクターの共有の認識は、客観的な存在でも、一部のアクターの主観でもなく、広範なアクターの「間主観的意味」をなすとみる。
このように国際的構造と化した規範をアクターが受け入れれば、そのアクターは「社会化」され、国際的構造を支える一員となる。
第二点に述べたアイデンティティの形成は、この社会化の結果と考えられる。
第四に、コンストラクティヴィズムは、国際関係の変化を積極的に捉えようとする。
逆に言えば、従来の理論は国際関係を固定的に捉えがちで、したがって冷戦終結さえ十分に説明できなかったとみる。
すでにみたように、アクターと国際的構造とは相互作用をし、それを通じてアクターのアイデンティティや国際的構造(規範)は定まる。
ということは、国際関係が安定しているのは、この相互作用が一定のパターンで反復し、その国際関係を維持しているためだと考えられる。
その相互作用が、何らかの契機―――危機や特定のアクターの企図など―――によって変化するなら、アクターが異なるアイデンティティをもち、国際的構造が異なる規範を伴うに至る。
つまりは、国際関係が変化するのである。
以上の特徴から、コンストラクティヴィズムの関心は、次のような点に向けられる。
国際的構造とアクターのアイデンティティとは、どのような相関関係をもち、相互に作用しているのか。
国際的構造をなす規範は、アクターにどのようなメカニズムで受け入れられ、そのアイデンティティや選好に至るのか。
逆に、アクターはどのような相互作用を通じて、どのような国際的構造(規範)を形成し、従来の国際的構造を変化させるのか。
こうして、なぜ冷戦が長期にわたって存続し、しかし終結したのか。
なぜ人権の国際的規範が確立し、人権擁護目的の内政干渉さえ是認されるようになったのか、などが分析されている。
以上の分析は、従来の一般的な方法論、とくにネオリアリズム(ネオリベラリズムも含めて依拠する、合意主義的な方法論的個人主義)と異なっている。
従来の方法論は、アクターが一定の選好をもっているものとして、アクター間のパワー配置のもとで、自助的に物質的な利害を追及して行動する、と想定していた(とコンストラクティヴィストはみる)(Wendt1999;Ruggie1998-b)。
ここでアクターは、予見される費用便益を計算して、すなわち「結果の論理」に基づいて行動すると考えられている。
これに対してコンストラクティヴィズムは、アクターが国際的構造(規範)の影響を受け、そこで期待される一定の役割を演じる―――「適切性の論理」に基づいて行動すると想定する(March&Olsen;ただしSendingも参照)。
あるいは、アクターはより真実性の高い解答を目指して、「討議の論理」に依拠して関係すると想定する(Risse)。
コンストラクティヴィズムが、以上の特徴をもっているとして、それはどれほど新しい意義をもち、国際関係の分析を変えうるのか。
あるいは、そうでないのか。
以下、コンストラクティヴィズムの特徴や意義について、広く抱かれている疑問を四点取り上げ、検討してゆきたい。
2.コンストラクティヴィズムは、なぜ過剰なほど抽象的なのか
コンストラクティヴィズムについてしばしば抱かれる印象は、それが過剰なほど抽象的で、哲学的でさえある点である。
この疑問は、そうした考察は国際関係には有益でないというイメージに、裏打ちされていよう。
実際、上にみたコンストラクティヴィズムの特徴は、かなり抽象的な印象を与えるかもしれない。
それにコンストラクティヴィズムは、存在論と認識論、規範、アイデンティティ、等々、国際関係論には一般的でない抽象的概念を多用する。
ヴィトゲンシュタインの言語行為論、ミードのシンボリック相互作用論、ハーバーマスのコミュニケーション的行為論、等々も援用する(Onuf;Wendt1999;Risse)。
これは、「国際関係を忘れたり、無視したりする危険」を冒すほどに抽象的、哲学的な「脱線」だとも受けとられ、違和感を与えかねない(Jorgensen)。
なぜ、抽象的なのだろうか。
それは第一に、コンストラクティヴィズムが、ネオリアリズム(もしくはネオリベラリズムも依拠する合理主義)批判を出発点としたためであろう。
1980年代、とりわけアメリカの国際関係論において、ネオリアリズムが一世を風靡していた。
その影響力は、圧倒的なほどであった。
コンストラクティヴィズムはそれを、とくに国家と国際的構造、概念的要素の捉え方など、理論の前提において批判した(Waltz;初期の批判としてAshley;Ruggie1983;Wendt1999)。
前節でコンストラクティヴィズムの特徴を指摘した際、「逆に言えば」として論及したポイントが、その批判点にあたる。
コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムの抽象的な理論と同じ土俵に立ち、より抽象的な理論的前提から議論を組み立て、必然的に抽象度の高い議論になったのである。
第二に、上で言及したように、ネオリアリズム批判が、ネオリアリズムの理論自体というよりも、その前提にある捉え方、ものの見方―――メタ理論に向けられていた。
ウォルツは、経済学に依拠して理論を組み立て、アクターと国際的構造の作用を単一方向(主体から国際的構造へ)で捉え、アクターのアイデンティティの由来や、国際関係の変化の起源を過小評価するなど、簡素化の「行き過ぎ」を生んでいた。
コンストラクティヴィズムは、この問題点を追求する際に、手がかりを(ウォルツの経済学に対して)社会学や哲学的な知見に求めた。
コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムの「行き過ぎ」に関して、あえて言えば社会科学の「常識」へと「引き戻し」を図ろうとし、抽象的なメタ理論に拘ったのだといえる。
第三に、コンストラクティヴィズムがネオリアリズムを批判する際、別途の理論を提示するのでなく、ネオリアリズムの概念や理論の欠落を指摘し、再考を迫る形をとった。
コンストラクティヴィズムのメッセージは、いわばネオリアリズムの「再概念化」にあり、より徹底的に考えるよう指摘する点にあった(Wendt1999)。
理論の有効性をめぐる議論の定石―――現実妥当性(relevancy)は、議論の焦点にならなかった。
それでは、以上のようにメタ理論的なコンストラクティヴィズムは、そもそも有益だと言えるだろうか。
有益だとすれば、以下の点においてであろう。
第一に、メタ理論的な考察は、それ自体無意味ではないはずである。
とくにネオリアリズムに「行き過ぎ」があり、それが広範な影響力をもったのであれば、その「引き戻し」は、「健全」な復元作用と考えられる。
ただし、日本ではネオリアリズムが一世を風靡したとはいえず、この点での意義は相対的に小さくならざるをえない。
第二に、メタ理論的な検討は、その後の理論構築にとって、いわば土俵を固める作業として有意義であろう(Jorgensen)。
実際、後で言及するように、理論構築に向けた仮説の提起、検証も本格化しつつある。
第三に、コンストラクティヴィズムが借用した社会学、社会心理学、知識社会学、コミュニケーション論などの成果が、仮説の形成を刺激しよう。
実際に、そうした試みが多数現れている。
国際関係論は元来、他のディシプリンから様々な影響を受けてきたのであり、当然の動きでもあろう。
とはいえ、メタ理論的な検討の意義を、現実適合性の観点から問えば、評価は分かれるかもしれない。
コンストラクティヴィズムが、ネオリアリズムの欠点を指摘し、その限りにおいてより包括的になっているとすれば、現実適合性を高めている可能性もある。
ただしその現実適合性は、他の従来の理論との比較において、相対評価しなければならないだろう。
コンストラクティヴィズムの意義は、とくにこれが批判したネオリアリズムとネオリベラリズムとの関係において、問われざるをえない。
この点は、コンストラクティヴィズムが当初、ネオリアリズムなどに替わる理論的パラダイムとして期待されたために、厳しく問われている。
次に、この点を検討してみたい。
3.コンストラクティヴィズムは、ネオ・ネオの理論的オールタナティヴなのか
結論を先取りするなら、コンストラクティヴィズムは少なくとも現時点において、ネオリアリズムとネオリベラリズムの理論的オールタナティヴとは言いがたい。
コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムやネオリベラリズムと一定の接点をもちつつ、独自のアプローチをなしている。
また仮説を蓄積して、理論化を進めている段階にある。
すなわち、第一にコンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムとネオリベラリズムを代替するというよりも、それらと部分的に共通し、それらをも含む枠組みとして構想された。
近年、コンストラクティヴィストとネオリアリスト(合理主義者)の間では、論点が相互批判よりも、接合、組み合わせに推移しているのは、その意味で当然の展開でもある(Jupille,Caporaso,Checkel;Schimelfenning;Finnemore&Sikkink)。
第二に、コンストラクティヴィズムは、因果関係を十分に特定した仮説群を備えおらず、ネオリアリズムと同等に理論化されていないとされる(その判断が妥当かどうかは、後に言及する)。
仮にそうだとしても、コンストラクティヴィズムはアプローチとして優れており、また、仮説の提起と実証においても、成果を蓄積しつつある。
まず、第一点について考えてみたい。
コンストラクティヴィズムの批判は、ネオリアリズムとネオリベラリズムの視野が狭い点(主体と国際的構造の相互作用を反面しか捉えず、パワーや利益を物質的にのみ捉え、国際関係の変化を軽視)に向けられていた。
ということは、コンストラクティヴィズムはネオリアリズムやネオリベラリズムを全面的に否定したのでなく、部分的に是認したうえで欠落点―――ただし重大な欠落点を指摘し、補充の必要を唱えたといえる。
しかも、コンストラクティヴィズムの主張は、社会科学の「常識」であるかもしれず(そうであるからこそ、コンストラクティヴィズムが欠落点を重大視したのであるが)、ネオリアリズムやネオリベラリズムには欠落していたとしても、伝統的なリアリズムやリベラリズムの知見のなかに認められた。
例えば古典的なリアリズムは、カーを典型に規範や理念の問題を取り上げたし、リベラリズムは元来、それを重視し、国際関係の平和的変化を論じていた。
リベラリズムの系譜のうち、相互依存論やこれにつづく国際レジーム論に至っては、コンストラクティヴィズムの着目する間主観的意味、それに基づく国際的構造(国際レジーム)、その変化に照準をあわせていた(その論者のラギー、クラトックヴィルなどは、今やコンストラクティヴィストとされている)。
その意味において、リアリズムやリベラリズムはコンストラクティヴィズムの指摘するほど狭くない、と言うこともできる(石田)。
ただし、リアリズムやリベラリズムは、コンストラクティヴィズムの強調する要素を断片的、周辺的に扱いがちで、体系的に論じはしなかった(Ruggie2998-b)。
コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズムやネオリベラリズムが削ぎ落とした伝統の豊かさを再評価し、体系的に論じる側面をもっていたと言えるかもしれない。
それもあって、コンストラクティヴィズムにはネオリアリズムとの共通点があった。
ウェントによると、国際関係をアナーキーとみる点、国家が他国の意図に確信をもてず、また生存を追及する点、などである。
しかし、そうした点が、間主観的に成立した国際的規範によって始めて可能になり、すなわち変化しうる点を、コンストラクティヴィズムは強調したのである(Wendt1999;Hopf)。
このようなコンストラクティヴィズムとネオリアリズム、ネオリベラリズムの重複、共通性から、コンストラクティヴィズムは、ネオリアリズム(やネオリベラリズム)を「補完」する議論だ、という主張も生まれている(Nye;Katzenstein,Keohane,Krasner)。
具体的に言えば、通常の安定した国際関係については、ネオリアリズムの分析で十分であるものの、国際関係の変動(アクターのアイデンティティの変化、あるいは国際的構造の形成の時期)にはコンストラクティヴィズムが妥当する、という見方である。
しかし、これはコンストラクティヴィズムを縮減した解釈ではないだろうか。
コンストラクティヴィズムの立場からすれば、逆にネオリアリズムの議論がその一部に「包含」されることになる(Wendt1999)。
というのも、安定している国際関係においても、実は変化の可能性が潜在していたり、その安定性を支えるような、一定の主体と国際構造の相互作用が存続していたりするからである(Checkel1999;Jeperson,Katzenstein,Wendt)。
あえて極言すれば、コンストラクティヴィズムの観点からすると、国際関係の安定性は変動の一部だとも言えるのである。
コンストラクティヴィズムがネオリアリズムを「包含」するのだとすれば、それ以外の領域について、ネオリアリズムと同等の仮説を提示する必要に迫られよう。
というのも、ネオリアリズム的な立場からすると、国際関係の分析課題の多くは、当面の国際関係におけるパワー配置、そのもとでのアクター間の駆け引きなどによって、説明できる。
しかもこの点に関して、ネオリアリズムは比較的明確な因果関係を捉え、それを仮説として提示しているからである。
そうであるならば、コンストラクティヴィズムは、主体と国際的構造が相互作用をなすのは、どのような条件において、どのようなパターンにおいてなのか。
関係者の間で間主観的意味が成立するというのは、具体的にどのような段階で言えるのか、といった点を明確化する必要があろう。
しかしコンストラクティヴィズムは、すでに興味深い視点や要因を提示しているとはいえ、因果関係の特定に自覚的に取り組むようになったのは、比較的最近である。
そのためコンストラクティヴィズムは、理論に至っておらず、政治過程を記述するための理論的枠組み、もしくはアプローチだとされている(Wendt1998;Checkel;1998,2001;Decsh;Hopf;Ruggie1998-b)。
確かに、そのような側面がある。
それでは、コンストラクティヴィズムは因果関係を提示しにくいのだろうか。
それを導くために、十分に実証的な分析はできないのだろうか。
この点でも、コンストラクティヴィズムは疑問視されている。
この問題を、次の節で検討したい。
以上のように、コンストラクティヴィズムはネオリアリズムやネオリベラリズムを代替しないとしても、その限界を示し、より広範な視点と独自のアプローチを示した。
このアプローチによれば、例えば国際経済交渉は、単なる経済的利益の獲得ゲームにはみえなかった。
各国が、異なる利害と認識をもちながらも、共通の政策課題に対して解決策のアイディアを提起し、討論しあい、国際的な規範構造を再構築している様相が、浮き彫りになった(大矢根2002;Oyane2003)。
なお、コンストラクティヴィズムに呼応するかのように、ネオリアリズム(ポスト・ウォルツ主義)も再考を図り、コンストラクティヴィズム的な要素をも導入している。
よく知られているとおり、ウォルトは脅威の説明要因として、物質的な要素だけでなく「認識された意図」を指摘した。
ネオクラシカル・リアリズムは、政策決定者が国際構造をどのように認識、解釈するかを重視し、外交政策の極めて詳細な(ネオリアリズム的に簡素ではない)分析を試みている(Walt;Rose)。
ネオリベラリズムの方は、規範を重視し、アクターが相互に作用して、国際制度を形成する様相に着目していた。
こうした関心は、コンストラクティヴィズムに吸収されてしまった感がある(その批判としてSterling-Folker)。
4.コンストラクティヴィズムは、因果関係を提示できるのか
コンストラクティヴィストは、ネオリアリズムやネオリベラリズムと同じく、因果関係の実証分析の必要性を認め、それが可能だとしている(Checkel1998;Katzentein,Keohane,Krasner)。
確かに可能であるものの、論理内在的な問題がないわけではない。
実際、因果関係の提示は困難だとする主張もある。
それは第一に、コンストラクティヴィズムの強調する主体間の相互作用、それと国際的構造との相互作用が、相互作用であるだけに因果的把握が難しいとする。
第二に、コンストラクティヴィズムの着目する規範、アイデンティティなどの非物質的要因は、特定しにくく、実態的にも流動的で、結果との因果関係が実証しにくいとされる(Haggard1992;LakeandPowell1999)。
まず第一点について。
因果関係を把握するには、説明変数と被説明変数が独自して設定でき、前者が後者に対して時間的に先行している必要がある。
それは、双方向の相互作用とは位相を異にする(Wendt1998)。
そのためか、初期のコンストラクティヴィズムは、主体と主体、主体と国際的構造の関係について、マクロ的に相関関係を指摘して、具体的な因果関係に踏み込まなかった。
分析手法としては、仮説演繹的な分析よりも帰納的な分析を選び、プロセス・トレーシングもしくは物語の記述を採用した(Ruggie1998-a)。
しかし、合理選択的な計量分析はともかくとして(その場合も、因果関係の把握を容易にするような一定の前提を設けるが)、国際関係論においては、一般に必ずしも厳格な因果関係を仮説の条件にするわけではない。
それほど厳格でなくとも、要因を特定した解釈論的な分析によっても、ある程度の客観性は確保できる(Adler;Haas&Haas;Smith)。
その「一般的」な水準の仮説であれば―――例えば
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- 分析 射程