大师の入唐.docx
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大师の入唐
大師の入唐
桑原隲蔵
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:
ルビ
(例)素張《すつぱ》拔かれたり
|:
ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)遣唐大使藤原|葛野《かどの》麻呂
[#]:
入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JISX0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1-2-22]
[#…]:
返り点
(例)今既入[#二]於秋節[#一]、
[#(…)]:
訓点送り仮名
(例)星[#(ヲイタダキテ)]發星宿、
〔〕:
アクセント分解された欧文をかこむ
(例)ワークワーク(〔Wa^kwa^k〕)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http:
//aozora.gr.jp/accent_separation.html
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(一)緒言
毎年この六月に、弘法大師降誕會が主催となり、東西の碩學を聘して講演會を開き、大師の遺風餘徳を偲ぶといふことは、極めて結構な企と思ふ。
古人を尚友すと申して、過去の偉人を修養の手本とするのは、非常に效驗が多い。
現存の人々にも立派な方は尠くなからうが、生きた人間の褒貶は定らぬ。
憲政の神樣が一朝にして憲政の賊に早變りなし、清節を看板の人が、その反對の事實を新聞紙上に素張《すつぱ》拔かれたりする。
眞僞は兔に角、評判の定らぬ人間を、修養の手本とするのは危險である。
大師の如き、千歳の下に日月とその光を爭ふ所の偉人を仰いで、修養の手本とするのが、極めて安全と思ふ。
さて本年は不肖私が講演を引き受けいたした次第であるが、如何なる講演をいたすべきかと、可なり苦心を拂うた。
一體私は宗教上の知識が不十分で、殊に眞言宗に就いての知識は皆無である。
從つて大師の宗教上に於ける偉績を申述べる資格がない。
さらばとて大師の文學とか、藝術とかに關しては、已に前年來先輩諸博士の講演が發表されて居つて、この方面でも餘り得意でない私が、態※[#二の字点、1-2-22]蛇足を添へる必要を認めぬ。
そこで色々思案の末に、茲に掲げた「大師の入唐」といふ題目を選ぶことにいたした。
私は自分の專門として、唐時代の歴史は多少調査して居る。
また私は支那へ滿二年間留學いたした。
丁度大師も二年間唐に留學されて居る。
大師が一年餘り滯在になつた長安には、私も半月餘り滯留いたした。
大師が福建から長安へ、長安から浙江へ往復された、その道筋の半ばは、千百年後に、私も親しく通過した所である。
この縁故により、大師の入唐の時、その往復に如何なる道筋をとられたであらうか。
その旅行は如何に困難であつたであらうか。
當時の長安は如何なる状態であつたであらうか。
大師は長安で如何なる行動をされたであらうかといふ風の問題を、當時の記録と私自身の體驗とを土臺として御話し申したい。
かかる講演は當會で未だ發表されて居らぬ樣であるし、旁※[#二の字点、1-2-22]萬更不適當のものであるまいと思ふ。
(二)渡海
大師の入唐はその三十一歳の時で、正しく桓武天皇の延暦二十三年(西暦八〇四)に當る。
この年の七月六日に、遣唐大使藤原|葛野《かどの》麻呂の一行が、肥前國松浦郡|田浦《たのうら》から唐へ渡ることとなつた。
大師は橘|逸勢《はやなり》と共に、藤原葛野麻呂の第一船に便乘いたし、天台の傳教大師は、判官菅原|清公《きよとも》の第二船に便乘いたした。
ここで先以て申置かねばならぬことは、當時の日支間の航海は非常に危險で、今日では殆ど想像し得ざる程の困難が多かつたことである。
申す迄もなく、當時の航海は帆船に乘るので、風の利用が第一に緊要である。
所が當時日支間の航海に、この風の利用が十分研究されて居なかつた。
一體西は紅海より、東は日本海に至る、東洋の海上に吹く風の方向は、季節によつて略一定して居る。
所によつては多少の相違はあるが、極めて大體を見渡して、陰暦の四、五月から七、八月にかけては、多く西南の風が吹き、九、十月から翌年の一、二月にかけては、多く東北の風が吹く。
その以後は復た西南の風が吹き出すといふ樣に、季節によつて吹く風の方向が略一定して居る。
これは西暦六十年の頃に、エジプトのアレキサンドリアの住人ヒッパルスといふ人が始めて發見して、航海に利用したと傳へられるので、ヒッパルス風とも、また恆信風ともいはれた。
この風の利用が開けて以來、西洋から東洋に渡航するには、西南風を利用して四・五月の頃から發船する。
その反對に東洋から西洋に出掛けるには、十月以後に發船する。
帆船時代には皆この恆信風を利用したもので、唐宋時代の歴史を見渡すと、南洋や西洋の貿易船が支那に入港するのは、大抵夏の五月の南風の吹く頃で、之を夏迅といひ、その貿易船が西洋や南洋へ歸航するのは、冬の十月十一月の北風の吹く時で、之を冬迅というた。
日支間の航海にもこの風を利用すべきと思ふが、事實大師の時代には、餘り之を利用せなかつた樣である。
この時代に日本から支那に出掛けるには、大抵夏期を選ぶ。
光仁天皇の寶龜七年(西暦七七六)の閏八月に、遣唐使一行の上奏に、今既入[#二]於秋節[#一]、逆風日扇、臣等望、待[#二]來年夏月[#一]、庶得[#二]渡海[#一](『續日本紀』卷卅四)といへる通りである。
現に大師等も七月六日に田浦を發船されて居る。
支那から日本に歸るのは秋冬の交を選ぶ。
これらは恆信風利用の點から觀れば、間違つて居ると申さねばならぬ。
勿論恆信風以外に、低氣壓や潮流の關係や、その他の事情もあつて、簡單に斷定は出來ぬが、恆信風を利用する上から申せば、その反對に、春夏の交に支那から日本に、秋期に日本から支那に渡航する方が寧ろ安全便利と思ふ。
幾多の入唐僧侶の中で、尤も迅速なる渡海を遂げたのは、安祥寺の惠運和尚であらう。
彼は仁明天皇の承和九年(西暦八四二)秋八月二十四日に、肥前國松浦郡|遠値賀《とほちか》島那留浦を發船し、正東風――實は東北風と見るべきである――に乘じ、僅に六晝夜にして浙江の温州の樂城縣(今の樂清縣)附近に到着いたし、滯在五年の後ち、承和十四年(西暦八四七)の夏六月二十二日に、明州(今の浙江省會稽道※[#「覲のへん+おおざと」、第4水準2-90-26]縣)より出帆して、西南風を利用し、僅々三晝夜にして、肥前國遠値賀島に歸着して居る。
即ち往復ともに恆信風を利用した譯である。
高岳《たかをか》(眞如)親王に同伴して入唐した宗叡和尚は、清和天皇の貞觀四年(西暦八六二)の九月三日に、肥前の遠値賀島から東北風に乘じて帆を擧げ、途中一夜だけは逆風に苦しめられたが、その七日に早くも浙江の明州附近に到着した。
貞觀八年(西暦八六六)歸朝の時は、六月に福建の福州(今の※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]海道※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]侯縣)より西南風に乘じ、五日四夜にして遠値賀島に到着して居る。
これも往復ともに恆信風を利用したればこそ、かく容易な航海を遂げ得たのである。
かく西暦九世紀の半頃となると、恆信風を利用した場合が多く見當るが、その五十年前の大師の入唐時代には、未だこの利用が十分に知られて居なかつた樣に思ふ。
次に航海には方向を正確に知ることが必要で、それには羅針盤を使用せなければならぬが、羅針盤が航海に利用さるるに至つたのは、大師の時代より約三百年後の北宋の末期からである。
大師の時代には、世界の何地でも、まだ航海に羅針盤を使用して居らぬ。
從つてこの時代の航海は、日月星宿を目標にして方向を定めるといふ、至極不安心のものであつた。
大師より約四百年の昔に、法顯がセイロンから南洋を經て支那に歸着した。
その當時の航海の有樣を記して
[#ここから2字下げ]
海中多有[#二]抄賊[#一]、遇輙無[#レ]全。
大海彌漫無[#レ]邊、不[#レ]識[#二]東西[#一]、唯望[#二]日月星宿[#一]而進。
若陰雨時、爲[#二]逐風[#一]去、亦無[#レ]所[#レ]准。
至[#二]天晴已[#一]、乃知[#二]東西[#一]、還望[#レ]正而進。
若値[#二]伏石[#一](暗礁)、則無[#二]活路[#一](『法顯傳』)。
[#ここで字下げ終わり]
と申して居る。
法顯その人も廣州へ入港する豫定が、難風に遇ひ方向を誤つて、今の山東の膠州灣附近へ漂着したのである。
唐時代の航海の状態もほぼそれと同樣であつた。
唐時代でも、南洋方面から來る貿易船は鴿《はと》を養ひ、之を陸上との交通にも、又は陸地の搜索にも、使用いたして居たが――最近の世界大戰以來持て囃された傳書鴿の使用は、東洋が本場で、十字軍の頃に、東洋から歐洲に傳つたものである――日支間の航海には之を使用せなかつた。
從つて我が入唐船が本國を離るるが最後、陸上との交通全く絶えて、一切の消息が通ぜぬので、その心細さは想像以上と申さねばならぬ。
之に加へて當時我が國の造船術も操船術も倶に幼稚で、支那は勿論、或は朝鮮よりも劣つて居つた。
齊明天皇の御世に、百濟援助の目的で戰艦を造つたが、折角出來上ると間もなく「艫《ヘ》舳《トモ》相|反《カヘル》」といふ有樣で、實用に適せなかつたといふ(『日本書紀』卷廿六)。
ついで我が海軍と唐の海軍と、今の朝鮮の忠清南道にある、百濟の白村江(白江口)で會戰して、我が海軍が失敗したが、それも畢竟我が國の戰艦の不完全と操船の不熟練の結果と認むべきであらう。
仁明天皇の承和六年(西暦八三九)八月に唐から歸朝した大使藤原|常嗣《つねつぐ》の一行は、往路は日本船で出掛けたが、その歸路には日本船の不完全を嫌ひ、江蘇の楚州(今の淮揚道淮安縣)で新羅船を倩うて之に搭乘[#「搭乘」は底本では「塔乘」]した。
同じ年に新羅船の方が能く風波に堪へるといふので、太宰府で新羅風の船を製造した。
これらの事實は何れも當時日本に於ける造船の不完全なりし證據と認むべきである。
そののち元・明時代に至つても、日本船は一體に支那船より製造法が劣つて居つたやうである。
上述の如き事情であるから、當時の航海の例として、出發の時にも歸朝の時にも、三四艘を一組となし、互に連絡をとつて航行するが、大抵中途で離散する。
二三の著しい難船の實例を示すと、
(a)聖武天皇の御世に、遣唐大使多治比眞人廣成の一行は、天平六年(西暦七三四)十月に四艘の船に分乘して、蘇州(今の呉縣)から歸朝の途に就いたが、大使の搭乘した第一船が比較的無事なりしを除くの外、その他の三艘は皆難船した。
中にも判官平群朝臣廣成の一行百十五人の搭乘した第三船は、南海の崑崙國(林邑國今の佛領安南の一部)に漂着し、或は殺害せられ、或は病死して、僅に四人だけ生存し、唐の保護を受けて、十年(西暦七三八)三月に、山東の登州(今の膠東道蓬莱縣)より渤海國に送られ、渤海國使の我が國に入貢するに同行して、龍原府(今の朝鮮の國境の圖們江口附近)より歸朝せんとしたが、又逆風の爲に、出羽國に漂着して、翌十一年(西暦七三九)の十一月に、六年目でやつと平城の京に到着した。
(b)その後約二十年にして孝謙天皇の天平勝寶五年(西暦七五三)の十一月に、遣唐大使藤原清河らの一行も亦四艘の船に分乘して、蘇州から解纜したが、間もなく離散し、中にも清河や阿倍仲麿の搭乘した第一船は、安南の驩州方面に漂着して、安南から更に長安に歸つた。
清河も仲麿も之が爲に、遂に再び故國を見ることを得ずに唐で逝去した。
十月や十一月に支那を發船すると、東北風を受けて、安南や林邑方面へ吹き附けらるるのが當然であらう。
(c)更にその後二十五年を經て、光仁天皇の寶龜九年(西暦七七八)に遣唐副使小野朝臣|石根《いはね》――この時大使佐伯宿禰|今毛人《イマエミシ》は病に罹つて、遂に入唐せなかつた故、石根は名は副使にして實は大使であつた――の一行は、例の如く四艘に分乘して、九月から十一月の間にかけて、揚子江口を發船したが、何れも難船した。
中にも石根の搭乘した第一船が、一番の遭難で、石根以下約六十人が溺死した。
生存した約百人の者も、やがて乘船が中斷した爲、心ならずも離れ離れになり、艫部に乘つた五十六人は薩摩國|甑《こしき》島郡に、舳部に乘つた四十一人は、肥後國天草郡に漂着して、不思議に生命を全くしたことがある。
此の如き状態であるから、當時支那へ渡航するのは、殆ど命掛けと申しても決して誇張でない。
學問の爲とか信仰の爲とか、專心精進の人は格別、御役目で唐へ派遣される人々は、先づ難有迷惑の方であつた。
遣唐使出發の際には、例として朝廷で送別の宴を御開きになるが、隨分濕りぽいものであつた。
大師の同伴された、遣唐大使の藤原葛野麻呂の爲に開かれた、送別の宴の有樣も、葛野麻呂涕涙如[#レ]雨、侍[#レ]宴群臣無[#レ]不[#二]流涕[#一]と傳へられてゐる(『日本紀略』前篇十三)。
遣唐大使の佐伯今毛人や、遣唐副使の小野篁などは、渡航を忌避したと推せらるる形迹がある。
暦學や天文を研究すべく、唐に派遣された留學生の中にも、愈※[#二の字点、1-2-22]本國發船の際に亡命して身を隱した者がある(『續日本紀』卷八)。
宇多天皇の寛平七年(西暦八九五)に遂に遣唐使を廢止したが、これには唐の衰亂といふ原因もあらうが、遣唐使廢止の發議者たる菅原道眞の主張に、
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臣等伏檢[#二]舊記[#一]、度度使等、或有[#二]渡海不[#レ]堪[#レ]命者[#一]。
或有[#二]遭[#レ]賊遂亡[#レ]身者[#一]。
唯未[#レ]見[#レ]至[#レ]唐、有[#二]難阻飢寒之悲[#一](『菅家文章』卷九)。
[#ここで字下げ終わり]
とあるに據ると、渡海の危險といふことも、その一大原因と認めねばならぬ。
要するに大師時代の入唐は非常に危險多く、今日の歐米留學などと同一視すべきものでない。
さて話が本題に立ち歸つて、わが大師の渡海の有樣を申述べよう。
最初肥前の田浦出發の時は、當時の慣例として四艘一組となり、同時に帆を揚げたが、間もなく離散した。
中にも大師の乘船は、最も困難なる航海を續けたことは、大師の作られた「爲[#二]大使[#一]與[#二]福州觀察使[#一]書」(『性靈集』卷五)に、
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忘[#レ]身衝[#レ]命、冒[#レ]死入[#レ]海。
既辭[#二]本涯[#一]、比[#レ]及[#二]中途[#一]、暴風穿[#レ]帆、※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]風折[#レ]柁。
高波沃[#レ]漢《ソラニ》、短舟裔々。
※[#「豈+風」、352-14]風《ミナミカゼ》朝扇、摧[#二]肝耽羅之狼心[#一]。
北氣日發、失[#二]膽留求之虎性[#一]。
頻[#二]蹙猛風[#一]、待[#二]葬鼈口[#一]。
攅[#二]眉驚汰[#一]、占[#二]宅鯨腹[#一]。
隨[#レ]浪昇沈、任[#レ]風南北。
但見[#二]天水之碧色[#一]、豈視[#二]山谷之白霧[#一]。
掣[#二]掣波上[#一]、二月有餘。
水盡人疲、海長陸遠。
飛[#レ]虚脱[#レ]翼、泳[#レ]水殺[#レ]鰭、何足[#レ]爲[#レ]喩哉。
[#ここで字下げ終わり]
とあるにて、その大體を察知することが出來る。
耽羅とは今の濟州島のことで、南風の爲に、ここに漂着すると、掠奪に遭はねばならぬ。
留求とは今の臺灣のことで、北風の爲に、ここに漂着すると、人喰種族に殺されねばならぬ。
この敍述には幾分文章上の修飾誇張があるかも知れぬが、『日本後紀』卷十二の遣唐大使藤原葛野麻呂の復命にも、この時の航海の有樣を述べて、
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出[#二]入死生之間[#一]、掣[#二]曳波濤之上[#一]、都《スベテ》卅四箇日。
[#ここで字下げ終わり]
とあるのを併せ考へると、當時の困難を略想像することが出來ると思ふ。
海上に漂蕩した日數は、一つは卅四箇日といひ、一つは二月有餘とあつて、所傳一致を缺くが、七月六日わが田浦を發し、八月十日に唐の赤岸鎭に着したから、航海日數は正しく卅四日で、二月有餘とあるは、或は一月有餘の誤かも知れぬ。
(三)福建着港
大使の一行は他の友船と離れて、海上に在ること卅四日にして、八月十日に、唐の福州長溪縣赤岸鎭の海口に到着した。
長溪縣は大體に於て今の福建省※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]海道霞浦縣の地に當る。
赤岸鎭とは今の霞浦縣の西郊に近く赤岸溪といふ河がある。
その河畔に在つたものと想はれる。
その附近の海口を赤岸港といふ。
赤岸とはこの附近一帶赤土にて樹木少なき故に、かく名付けたのであらう。
この方面は福建地方でも尤も海中に突出して居り、從つて明の嘉靖時代にも、倭冦が頻繁に出沒した所である。
一體唐時代に、日本船は多く揚子江沿岸に出入した。
江蘇の揚州(今の淮揚道江都縣)とか、蘇州(今の蘇常道呉縣)とかが、日本船出入の要津であつた。
大師の作られた、「爲[#二]大使[#一]與[#二]福州觀察使[#一]書」の中に、
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建中(西暦七八〇―七八三)以往、入朝使船、直着[#二]揚蘇[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とある通りであつた。
錢塘江口の明州や越州(今の浙江省會稽道紹興縣)へも、隨分日本船が出入した。
宋時代になると、この浙江沿岸の方が、支那と日本朝鮮との交通の門戸と確定した。
然るに福建方面は、從來餘り日本と交渉がない。
長溪縣へ日本船の入港したるは、恐らく今囘が最初であらう。
大師の便乘した第一船も、勿論揚子江口か、錢塘江口を目的としたのであらうが、風波の爲に、この南邊に到着した譯である。
この長溪縣は邊鄙の小縣とて不便多く、更に地方長官(福州觀察使)所在地の福州へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航を命ぜられ、我が遣唐大使の一行は赤岸鎭を後に、福州に到着したのは、その年の十月三日のことである。
支那來航の外國船に貢舶と市舶との區別がある。
貢舶とは外國の入貢船のことで、之に對しては支那官憲の取扱も鄭重で、その舶載せる貨物には關税を徴收せぬ。
市舶とは貿易を目的にする外國船で、その貨物に對しては、所定の關税を徴收する。
貢舶市舶の區別は、主として明代の記録に見えて居るが、事實としては唐・宋時代から、この區別が行はれて居つた。
我が遣唐大使が、從來何等縁故のない地方へ入港した爲め、福建の官憲から種々煩細なる取調べを受け、殊に市舶同樣の取扱を受けんとした。
「爲[#二]大使[#一]與[#二]福州觀察使[#一]書」の中に、今囘の待遇が從前に比して苛酷なる點を述べて、不平の意を漏らしてあるが、かかる行違ひの結果で、誠に已を得ざる次第と申さねばならぬ。
我が大使一行の福建滯留は意外に長引いた。
赤岸鎭到着後約三月に及ぶも、入國上京の許可に接せぬ。
これには地方官憲から、事件を中央政府に報告して、その指揮を仰ぐ爲めに要する日數もあり、殊に當時生憎福建の觀察使が更迭中で、自然事務が遲滯する事情もあつた。
大師はこの空しき滯留を非常に煩悶せられ、その「與[#二]福建州觀察使[#一]請[#二]入京[#一]啓」に、
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居諸《ツキヒ》不[#レ]駐、歳不[#二]我與[#一]。
何得[#下]厚荷[#二]國家之憑[#一]、空擲[#中]如[#レ]矢之序[#上]。
是故歎[#二]斯留滯[#一]。
貪[#二]早達[#一レ]京(『性靈集』卷五)。
[#ここで字下げ終わり]
と申述べて、熱心に入京求法の許可を催促されて居る。
かくて十一月の三日に、始めて入京の許可を得、遣唐大使以下我が大師を加へて二十三人だけ、福州から長安に發向いたし、その以外のものは、當分福州に滯在して、明年の三四月に、大使一行が長安から明州に到着する頃に、明州へ廻航することとなつた。
(四)長安途中
我が大使大師の一行が福州から長安に往くのに、如何なる道筋を採られたかは明瞭でない。
當時の記録にこの道筋のことが一切見えて居らぬ。
されど私ども專門家の立場から申すと、交通道路は略一定して居るから、この一行のとられた道筋も大體の見當はつく。
大師等は恐らく※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]江の流を溯つて、今の南平縣・建安縣・浦城縣を經て、浙江省に入り、大體に於て錢塘江の流に沿うて、今の浙江省錢塘道杭縣即ち唐時代の杭州に出られたことと想像する。
福州杭州間の距離は約千六百六十{支那}里で、即ち十七八日の行程である。
私はこの道筋に就いては、何等の體驗がないから、何事をも申述べることが出來ぬ。
(A)水路
杭州は隋の煬帝の開いた運河の最南端に在る。
この方面での一都會で、名勝に富み、古刹も尠くない。
支那では東南澤國とも、北馬南船とも申して、浙江・江蘇方面は一體に水利の便が開けて居る。
杭州から水路約三百五十{支那}里往くと蘇州で、姑蘇の寒山寺の所在地として、日本人によく知られて居るのみならず、唐・宋時代に日本人の終始往來した所である。
蘇州の産で、金石學者として聞えた、清末の葉昌熾に據ると、蘇州城外に、日本國使の墓と傳へらるる古墳があり、又その殘碑もあるといふ。
近時蘇州に往來する日本人は中々に多いが、未だ誰人もこの遺蹟を踏査せぬ樣である。
蘇州から更に水路を往くこと三百八十{支那}里で、潤州(今の江蘇省金陵道丹徒縣)に至る。
宋時代から有名となつた金山寺はここに在る。
ここで長江(揚子江)を渡ると、その對岸が揚州(今の江蘇省淮揚道江都縣)である。
揚州は鑑眞和尚と特別の關係ある土地で、また隋代の史蹟も多い。
大師の時代に、揚州は尤も繁昌を極めた都會で、その時分に揚一といふ諺があつた。
富庶といはず、繁華といはず、すべての點に於て、揚州が天下第一といふ意味である。
唐の詩人は人生只合[#二]揚州死[#一]――同じく死亡するのでも、揚州の土になりたい――とさへ申して居る。
横の揚子江と、縱の運河の交叉點に當る揚州は、當時内外商賈の輻輳する所で、遠くアラビア(大食)ペルシア邊の外商も尠からずここに來集した。
彼等の間には揚州はカンツウ(Kantou)として知られて居る。
カンツウとは揚州の別名である江都を訛つたものと思ふ。
ここには日本人や朝鮮人も多く來集した。
揚子江沿岸へ入港する日本人朝鮮人は勿論のこと、揚子江以南の地へ入港する日本人朝鮮人も、皆揚州を通過して、洛陽や長安に出掛けた。
自然揚州でアラビア人やペルシア人が、日本人朝鮮人のことを見聞する機會が多い。
さればこそ唐の中世頃、即ち西暦九世紀の半頃のアラビアの地理書に、日本朝鮮の記事が始めて登録さるることになつた。
それには日本をワークワーク(〔Wa^kwa^k〕)としてあるが、ワークワークとは倭國を訛つたもの、朝鮮をシーラー(〔Si^la^a^〕)といふのは、新羅の音譯であらう。
此の如く運河の道筋には名都舊蹟が甚だ多いが、大使大師の一行は、一向に前途を急がれた。
藤原葛野麻呂の復命に、
[#ここから2字下げ]
星[#(ヲイタダキテ)]發星宿、晨昏兼行(『日本後紀』卷十二)。
[#ここで字下げ終わり]
とある通りである。
こは福州にて意外に時日を空費したから、成るべく年内に長安に到着して、使命を果さうといふ理由に本づくと思ふ。
事實福州から長安まで約五千三百{支那}里――『元和郡縣志』に五千二百九十五里とある。
『日本後紀』に此州(福州)去[#レ]京七千五百廿里とあるのは、間違と斷ぜねばならぬ――の長途を、四十八九日で旅行することは、支那の旅行としては、中々|忙敷《あわただし》いので、我が一行は蘇州にも、揚州にも、一日の滯在見物する暇なかつた筈と想像される。
併し大師は歸朝の日も、この同一道筋をとられ、この時は往路程前路を急ぐ必要なかつた筈故、多分此等の都會を一日位は觀光されたかと想ふ。
私もこの杭州揚州間の運河は、一部分知つて居る。
その一部は汽船で、一部は支那船に乘り込んで旅行した。
故に大師の
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