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学制1
総説
一 幕末維新期の教育
明治五年の学制による近代教育制度の創始は、わが国教育史上に一時期を画するものであった。
しかしわが国においては、明治以前に多数の近世学校が設けられていた。
近世学校の発端は室町時代に認められるが、江戸時代にこれらの学校が発達し、近世学校の体制がつくられていた。
江戸時代の社会で指導的役割を果たしているのは武士であって、高い水準の学問・教養が求められ、子弟を教育するために学校を設立していた。
幕府や諸藩は武士の子弟を教育するため学問所を設けたり、学者の家塾に通学させたりしていた。
江戸時代の中期から大藩は、近世武家学校を整備して子弟の教育に努めることとなった。
これらの学校が藩校であって、寛政ころから多くの藩は藩校を設けるようになった。
幕末維新期には小藩も学校を開設する情勢となり、全国の藩校数は二七〇校ほどに達していた。
また、藩内の主要な町などには郷学を設け、ここで地方に居住する武士の子弟の教育を行なっていた。
幕府は、江戸にさまざまな目的をもつ学校を開設して偉容を示していたが、直轄地には、それぞれに学校を設立していた。
江戸に開設されていた幕府の学校のうち最も重要な地位を占めていたのは昌平坂学問所であった。
この学校は、儒学を修めることを目的とした学校であって、林家の学者を大学頭に任じて、この学校を主宰させていた。
湯島の広い敷地に大きな規模の聖堂を設け、講堂や教官室をつくり、寮舎も設けてあって、最も大きな学校として著名であった。
多くの藩ではここに藩校の教官を派遣し、儒学を修めさせる例もあって、江戸時代における儒学の中心をなす学校となっていた。
幕府は儒学以外の学問のためにも学校の機能を果たす施設を江戸につくっていた。
国学のための和学講談所、和漢医学のための医学館、また西洋医学のためには医学所、西欧近代学や外国語学を修める学校も幕末には設立され、幕府が経営した江戸の学校は大きな組織のものとなっていた。
諸藩は、これにならって藩校を経営したが、幕末になって人材育成が緊要な問題となるにつれて、武士のための諸学校に多くの期待がかけられ、各藩は学校拡充のために努力した。
これらの学校のほかに学者が開設した家塾があり、幕末にはここに学ぶものも多くなり、優秀な青年を教育した著名な家塾が各地に設けられていた。
江戸時代には、庶民も子弟に学業を修めさせるようになり、武家子弟の学校とは別に手習所を用いることとなりた。
これは手習師匠が二〇人ほどの子どもを集めて手習を教える小さな学校で、これが寺子屋であった。
ここでは庶民が日常生活において必要としている基本文字の習字から始め、しだいに往来物などを教材として学ぶようになり、何年も寺子屋に通った生徒の中には.四書五経の読み方に進むものもあった。
文字の手習と読書のほかに、算盤を用いて計数の学習をするものもあったが、加減乗除の基礎を学ぶ程度であった。
この庶民の学校は江戸中期より各地に設けられるようになり、文化・文政のころから幕末にかけて多くなったことが明らかにされている。
この寺子屋は農山漁村にまで普及していたので、全国の寺子屋は数万になっていたと推定されている。
このように小規模な学校であったが、寺子屋が普及していたことは、維新後の初等教育の発展に重要な基盤をつくっていたことは明らかである。
なお、江戸時代の庶民教育として寺子屋のほかに社会教育の機能を果たしていた心学講舎や民衆教化の活動、青少年の組織として各地にあった若者組なども注目すべき近世教育の一面であった。
明治維新は政治・経済・社会にわたる大改革であったが、明治政府は、維新直後から教育改革の方策をつくることに努め、学校の開設について計画を立て、これらの学校の設置を奨励した。
明治元年にすでに学校制度を取り調べる委員を任命したが、これらの人々が中心となって、新時代の学校制度案をつくっていた。
三年二月に公にした「大学規則」によると、これは、指導者も養成する学校を設置する計画であったが、大学と結び合わせた中学や小学の規則も定め、大学・中学・小学の学校体系の設定を明らかにした。
また、二年には一般子弟のために小学校を開設して、時勢の変化に応じた民衆の教育に着手するように指示した。
当時は廃藩置県以前であって、全国にわたる学校制度を実施することはできなかったが、すでに学校を政府の設置計画によって開設する方針をとっていたことは、注目しなげればならない。
四年七月、文部省が設置されるとただちに近代学校制度の立案に着手できたのは、維新直後から学校開設の計画が始められていたことによるのである。
当時政府が新しく設けた府県と旧来の多くの藩は、それぞれに新しい学校を開設したり、近世以来の教育機関の改造に着手していた。
京都においては、明治元年から教育計画の樹立に努め、翌年には学区制の企画によって、六四の小学校を開設し、区内住民の財政協力によってこれを経営する方法を始めていた。
また多くの藩は、政府が発表した教育改革の方策を参照して、初等教育の学校とともに中等学校の設置計画をつくって、旧学校の改造を始めていた。
まだ統一した学校制度が全国に実施されていなかったので、これらの学校は性格も多様であり、名称も一定していなかった。
藩立の学校を改造した場合には、学校、藩学校、郷学校などの名称を用い、一般子弟のための初級の学校は小学、小学校、小校、啓蒙所、義校などと称していた。
このように新しい時代を迎えて、旧来の教育を改革する計画をつくり、これを実施するという気運は全国にみなぎっていた。
こうした改革の動向が現われていた情況のもとにおいて、明治五年の学制は頒布されたのである。
二 近代教育制度の創始
明治四年、廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府として同年七月文部省が設置された。
これから文部省が全国の諸学校をすべて統轄する制度となった。
文部省の長官としては初めに江藤新平が文部大輔となったが、間もなく大木喬任が文部卿となり、文教行政の首脳部を構成した。
文部省は全国の学校を統轄したばかりでなく、積極的に国民を教育する責任を果たさなければならないとした。
ここにおいて江戸時代からの諸学校の普及を基礎とし、さらに欧米諸国の教育制度を参照してわが国の学校教育制度を創始することとなり、ただちに起草に必要な資料を集めて制度立案の準備を始めた。
四年十二月に一二人の学制取調掛が任命されて学制条文の起草にあたった。
五年一月には学制の大綱を定め、詳細に各条を審議し条文として整え、五年三月ごろに案文が上申され、六月二十四日に太政官において認可された。
その後府県への委托金についての条項について決定ができないため、この条文は確定しないまま、五年八月三日に太政官の布告をもって「学制」として公布した。
この太政官布告は、学制実施に当たっての教育の宣言ともいうべきもので、教育における学問の意味を明らかにし、従来の学問観や学校観を批判した。
そして新しい学校へ人民一般が入学して新時代の有用の学を修めなければならないとした。
また、子どもを就学させることは父兄の責任であって、必ずこれを果たさなければならないとした。
学制条文のうちには当時問題となっていた海外留学生規則やのちに育英制度となる貸費制規則も加えられている。
学制の条文は、その多くが学校制度の体系を決定し、これを実施する行政組織をつくるための条章であった。
学校制度の体系としては小学、中学、大学の三段階を基本とした。
小学校は八年制で上等小学、下等小学各四年の学校となっていた。
小学校は学校制度の基礎となる教育を施す機関であって、すべてのものが入学しなければならない学校として企画してあった。
小学校には種別があり、尋常小学は、基本となる普通教育を施す学校であって一般の児童はここに入学するとした。
そのほかにさまざまな教育を行なうことのできる小学校を企画した。
中学は、小学を修了したものが入学する学校であるとし、小学校教育を受けたものの中から選ばれた生徒がここに入学することとした。
中学校にも実業教育のための諸学校や補習を行なう学校などの種別があると定めていた。
中学校を修了したものの中から選ばれた生徒が大学に入学するとし、大学教育の基礎となる外国語学習のための外国語学校やその他の諸専門学校についても定めている。
これらが高等教育を行なう諸種の学校として規定に掲げられていた。
このようにして小学、中学、大学を基本となる学校体系として、そのほかに多様な教育を行なう諸学校も計画して近代学校の全体を展望できるようにした。
これらの小学、中学、大学を設けるために学区制をとり、全国を五万三、七六〇の小学区に分け、ここに小学校一校を、二一〇小学区をもって中学区とし、全国二五六の中学区に中学校一校を設置することとし、三二中学区をもって大学区とし、ここに大学一校、全国に八大学を設けることとした。
これは学区制による小学、中学、大学の設置計画であって、新学校制度を創始するにあたってのすぐれた着想として注目しなければならない。
これらの学区制は、学校を開設する際の基準となる計画であったが、この学区制によって、小学、中学、大学が全国一せいに設置されたのではなかった。
文部省は、まず小学校の開設から始めることとしたが、これは急速に進められ、三、四年の間に、わが国が必要とする二万六、〇〇〇ほどの小学校が設置された。
中学校は漸次に設けることとしたが、学区制によって中学校を設置する企画は実際には行なわれなかった。
大学についてはただちに八大学の設置には至らなかったが、十年にようやく東京大学一校が開設されるにとどまった。
ただこの間に成立した大学予備門や私立専門学校の発端となった諸学校が学生を集めて教授するようになってきた実情が注目される。
このようにして学区制による学校の開設は、小学校設置についてだけ学制条文に基づいて設置されることに終わったが、計画された五万三、七六〇の小学校を設けることには至らなかった。
しかし、学区制が新しい小学校を創設する際の重要な目安となったことは認めなければならない。
各府県ともに学制頒布後ただちに管内を小学区に分けて編制したこと、ここに小学校一校を設けることを目標として学制実施にあたった地方住民の努力、これを推進した各地の学区取締の活動などは、小学校設立の際の大きな業績として記録されなければならない。
なお、これらの各府県小学校の設立運営の経費は、管内各戸への賦課金や、授業料、有志の寄附金などによったのであって、これについても各地区の住民に多くの経済的な負担をかけることとなった。
教員養成のために師範学校を設け、卒業生を教師として小学校へ派遣する方策は、江戸時代には全くなかったことであった。
学制実施に当たって新しい時代に即応した教育を行なうことのできる教師を養成することは、緊要な問題として学制実施の着手順序に掲げられていた。
このためまず東京に師範学校を開設することが決定されたのは五年五月であって、学制頒布以前のことであった。
これがわが国における教師養成の学校の最初の試みであって、ここで教育を受けた教師を府県に配置して、地方の教員養成機関を発展させようとした。
また、六年から各犬学区に一校の官立師範学校を設置したが、これを地方における教員養成の中心機関とする方針であった。
各府県は、管内に教員養成のための学校を設け、中央において教育を受けた教師の着任によって、新時代の小学校教師の養成ができることとなった。
これらは府県によって伝習所、講習所、養成所、師範学校などの名称をつけていたが、いずれも府県師範学校の発端となった。
学制実施期において主として文教行政にあたっていたのは文部大輔田中不二麻呂であった。
田中は学監として文部省に六年から着任していたダビット・モルレーと協力し、学制実施の経験を基として教育制度に改善を加え、近代教育の基礎を固める方策を立てる任務を果たすこととなった。
十二年九月には「学制」を廃止して「教育令」を公布した。
教育令において基本となった方策は、中央統轄による画一的な教育を改めて教育行政の一部を地方に委任することであった。
学制の重要な方策であった学区制を廃止し、府県に学校の運営をまかせることとした。
また、督学局学区取締による地方教育の統轄を改め、学務委員を町村住民の選挙によって決定するという進んだ方法も加えた。
これはアメリカにおける方式によったもので、近年になって実施された教育委員会制度に似た方策であった。
小学校就学の期間についても最低時間を定め、弾力性をもった運営ができる規定をつくった。
このような方策は、世間で当時の自由民権運動などの思想とも関連があるとみられ、自由教育令などという世評を受けた。
府県によってはこの教育令が学校の設置経営を自由にしたということで小学校を廃校するものもでき、地方によっては就学率が低下する情況も現われた。
田中不二麻呂はこのような世評をうけて司法卿に転じ、河野敏鎌が十三年二月、文部卿に任ぜられた。
河野文部卿は、地方の教育実情を視察、民情に即した方策をくふうし、早急に新しい改善方策を実施するため、十三年十二月に教育令を改正した。
これによって府知事、県令の権限を強めたり、文部省の行政力を強めて中央統轄の方策を立て、学校の設置や就学についての規程を強化して学校教育が弱体化する傾向を改めようとした。
このようにして教育全体にわたってしだいに中央で定めた規則が徹底し、教育の実際が中央の方針によって定まった形をとる傾向になった。
このことはわが国の近代教育を統一された形へと編成する出発点となったので、十五年ごろまでに教育令改正による全国教育の改善が一段落を告げた。
しかし、その後世間の不況も影響し、就学率も停滞してきたので十八年八月教育令を再び改正した。
この再改正は、地方の教育費を節減するためであって、簡易な小学教場を設けることを認めたことなど、当時の経済情勢に応ずるための方策によるものであった。
しかし、翌十九年には学校制度全般の大改革があり、教育令を廃止したので、十八年の再改革はわずかの期間実施したにすぎなかった。
近代学校教育の創始期における制度は、明治十年代の終わりにかけて試みの段階を終わったが、創始期の中心になっていたのは小学校であった。
この小学校でどのような教育を行なうかについても、最初からそれを文部省が指示する方針をとっていた。
小学校において授ける教科目については学制条文のうちに掲げたが、これに基づいた「小学教則」を公布して、教科目と時間配当、教科書、授業の要点などを明らかにした。
これをもって小学校の教育内容と方法を改革する基本とする方針であった。
しかし、当時の小学校の多くは新しい教科目をじゅうぶんに理解して、教材を編成することは困難であったために、多くの小学校は、旧来の読書算を授けるにすぎなかった。
十年前後には、東京の師範学校で編成した教則に準じて、各府県が小学校の教則を定め、管内の小学校に指示していた。
十四年には「小学校教則綱領」を公布したが、これは学制当時の教則を根本から改めたものであって、実施できる形で近代教科目を定め、学科課程の基本となる事項を初めて公に示したものである。
この教則においては、小学校を初等科三年、中等科三年、高等科二年として、この三つの学年段階をもとにした科目の編成と教授の内容とを規定した。
この場合、小学校初等科では修身のほかに読書・習字・算術・体操を科目とした。
中等科においては初等科の科目のほかに地理・歴史・博物・物理・裁縫などを加えることとした。
これらはその後における小学校の教科目と教育内容を編成する基本となった。
中学校は、この期における中等諸学校の中で正系となる学校であったので、中学校で授ける教育内容については、学制条文の中で学科目を規定した。
五年九月には「中学教則略」を定めて学制の中に示された科目のほかに教科目を加えて、各級別に学科目を配列した。
しかし、当時は中学校が少なく、また、その性格も実際においては明確でなかったので、この規則が、すべて中学校に実施されたのではなかった。
十三年に教育令改正によって教育改革が行なわれた際に、中学校の教則については十四年七月に「中学校教前大綱」をもって教育内容の基準を示した。
この大綱においては各科目の要旨を加え、これを教育内容編成の基準とした。
これによって制度上中学校の教育内容を明示したが、明治十年代の中学校には一教員で開設し、数十人の生徒を教えている学校もあり、公布した中学校教則をただちに実施したとみることはできない。
また、師範学校の教則については十四年八月に「師範学校教則大綱」を定めて、教科目と学年による配当と教授時数も示して基準を明らかにした。
教育内容を決定する基本となった学科目と教育の要旨や教科書名については教則をもって指示したが、学校においてはこれらの学科の授業で使用する教科書を入手することが緊要であった。
小学校については学制頒布とともに文部省で教科書の編集を始め、各科目において使用する多くの教科書を取り急ぎ刊行した。
江戸時代を通じて用いられてきた伝統的教科書も使用させたが、欧米の教科書を翻訳してこれを全国に普及させる方策をとった。
この翻訳教科書は、府県において翻刻して普及させることとしたので、文部省刊行の教科書は多数の翻刻版として全国の小学校に普及した。
それらのうち小学読本、地理、歴史などの文部省出版教科書はほとんどすべての小学校で使用された。
これらの教科書、教材が創始期の小学校における主要な教育内容となっていたことはいうまでもない。
これらの教科書を教授する方法も、学制頒布とともに師範学校において試みられた。
それは学級編制による一せい教授の方法であって、寺子屋で行なわれていた個人教授の方法を改革する実践であった。
これは米人スコットが師範学校の教師として着任して試みたものであって、各地の小学校の校舎が整うとともにこの方法が全国に普及した。
このような教科書を用いて進める一せい授業に対して生徒の自律活動を尊重する心性開発教授の方法が主唱された。
これはアメリカから伝えられたペスタロッチ教育法の原理によるものであった。
この方法は実物を用いたり、問答教授の方法をとったりする試みであった。
これは当時開発教授術として注目されたが、小学校の教育実践をこの方法原理で改めるまでには至らなかった。
学制頒布から十年代にかけて実施された学校教育は、文明開化の一つの標識であって新築の校舎も教育の内容や方法も欧米風であった。
これに対して、東洋道徳に基づいて教育の本末を正す方策をとることについて提唱があった。
十二年には天皇の意向を体して元田永孚が『教学聖旨』をしるした。
この文書においては、明治初年以来の教育が欧米の知識技芸を移入することに力を注いだため、教育の根本にある仁義忠孝を忘れている、今後は東洋道徳を基本として徳性を涵養し、その上に知識技芸の教育を行なうように教育の基本思想を改め直す必要があるという趣旨が述べてある。
この文書は文部卿や内部卿に示されたが、そこには学制以来の教育全般の性格を検討し、すみやかに改善の方法を立てるようにと要望してある。
この教育精神を実現するため、教育令改正に当たって修身を諸教科の初めに掲げたり、「小学教則綱領」の際に修身、歴史の内容にその趣旨を加えたり、「小学校教員心得」や「学校教員品行検定規則」を公布して教員の考え方や行動をこの精神によって形成し、教育において徳性を高めるための教育方策とした。
三 近代教育制度の確立と整備
明治二十年代の初めは憲法発布、国会開設によって立憲政治が行なわれることとなり、明治初年以来の改革が一つの段階を築く時代となった。
十八年内閣制度が創設され、文部省に初めて文部大臣が任命されることとなり、森有礼が着任した。
森文相は学校制度全般にわたる改革を断行し、基本となる近代学校の体系をつくりあげた。
二十年代の後半に井上毅が文部大臣となり、森文相による学校制度改革のあとをうけて、実業教育、女子中等教育などについての改革を行なった。
森、井上両文相によってわが国における近代学校制度の基礎が確定したのである。
三十年代になってこれらの制度についての検討を重ね、教育全般の整備を進めた。
次いで義務教育年限延長により、小学校の体制を明確にして発展の基本を決定した。
三十年代においては中等学校についても改善の方策が立てられ、専門学校の制度も確定し、高等学校を大学予科としての教育を行なう機関として位置づけた。
このようにして明治五年学制によって出発した学校制度は三十年を経て近代学校として安定した体系をとることができた。
大正年代から昭和初年にかけてはこの制度を基本として学校制度を拡充・整備したのである。
明治二十年代から三十年にかけての教育改革はわが国の教育発展に一時期を画する意味をもっている。
森文相は、学校体系の基本となっている小学校、中学校、大学と教員養成機関を重視して師範学校の四つの学校制度を確定した。
これらはいずれも五年学制頒布に当たって創始されたものであったが、小学校の設立に主力を注いでいたため、学校全体を一貫した原則によって組織するまでには至らなかった。
また、これらの学校制度は、学制と教育令の中において規定され、簡単な条文をもって規定したにすぎないため、この規定によって制度を運営することは困難であった。
森文相は十九年に学校令を公布し、四種類の学校については、それぞれに独立した学校令によって制度としての性格を規定したのである。
学校体系を組織するに当たっては、小学校、中学校、師範学校いずれも尋常・高等の二つの段階をもって編制した。
小学校は尋常小学校四年、高等小学校四年、合わせて八年の学校であることは学制以来変わりはなかった。
しかし、この小学校令において尋常小学校を義務制とすることを明確に規定し、はじめて就学の義務を明らかにしたのである。
わが国の義務教育制度は十九年の小学校令をもって発足した。
しかし、当時はすべての学齢児童を四年課程の尋常小学校に入学させることは困難であったので、半日学校で三年の簡易科を設けることも認めた。
当時は就学率が五〇%に達していなかったので、これによって、小学校教育の普及を図ったのである。
中学校は、五年制の尋常中学校と二年制の高等中学校とし、全国に設置して、小学校卒業者に進学の機会を与えようとした。
公費をもって経営する尋常中学校は各府県に一校を設けることとし、高等中学校は全国を五区に分けて、その区内の尋常中学校卒業者の中から選ばれたものが入学する制度とした。
これによって、従来は必ずしも制度として明確でなかった中学校がこの学校令の規定によって整然となり、一時は多数設けられていた中学校が全国において五〇校ほどになった。
尋常中学校においては実務に就くものと上級学校へ進学するものとを教育することとなっていたが、この性格は高等中学校においても同様であった。
したがって高等中学校には専門教育を行なう機構も作られたが、帝国大学へ進学するための基礎教育を行なう教育が発展し、後に高等学校に改められて、大学への予科教育を行なうようになった。
この性格は大正八年の高等教育制度の改革まで変わらなかった。
師範学校も小学校教員を養成する尋常師範学校を各府県に一校ずつ設け、中等学校、尋常師範学校の教員を養成する高等師範学校は東京に一校設ける制度とした。
高等教育機関としては、帝国大学一校を東京に設ける制度とし、ここには大学院も設けることを規定に掲げた。
しかし、明治十年代からすでに開設されていた多様な専門学校については制度化を行なわなかった。
二十年代後半において井上文相の時代となって学校制度についての改革が行なわれた。
その一つは女子の中等教育制度であって、従来は中学校令の一部に加えて制度化してあったのを独立した学校として位置づけることを企画して、まず「高等女学校規程」を公布した。
しかし、最も大きな教育制度の改革は、当時急速に興隆してきた近代産業、特に工業に従事するもののために実
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