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唐代琵琶杂考
『鹿園雜集』第2・3合併号
奈良国立博物館研究紀要
平成13年3月31日発行
唐代琵琶雜攷
―正倉院の「秦漢」琵琶―
外村 中
一 はじめに
琵琶を演奏する状況を画いた、いささか奇妙な絵がある。
どの絵がそうかといえば、唐代の伝統を伝えるといわれる正倉院の琵琶の捍撥に画かれたものがそうである(口絵1、図1、2)(注1)。
では、そのどこが奇妙かといえば、そこに画かれた琵琶の型がそうで、なかなか見ることができない型をしている。
あるいは、琵琶をよく知らない者が適当に画いたら、たまたまそのようになっただけのものかもしれないが、実は一方その琵琶こそ、近年ではその存在すら忘れられている、いわば幻の琵琶ともいえる、唐代に「秦漢」と呼ばれていた型の琵琶である可能性もある。
では、なぜそのような可能性が残されているかといえば、唐代に演奏されていた琵琶の型については、いまだ必ずしも十分には検討がなされていないからである。
たとえば、現在のところ日本の代表的な説としては、唐代には次のような三種類の琵琶があったとされる(注2)。
阮咸(別名、秦漢子)、曲項、五絃。
これに対して、中国では近年次のように四種類あったとする説が登場している(注3)。
秦漢子、曲項、五絃(別名、秦漢)、阮咸(秦漢子とは異)
以上の分類は、基本的にはともに唐代に著された『通典』の内容にもとづくものであるが、その解釈の仕方により相違が見られる。
では、どちらが適切かといえば、実のところどちらにも難点がありそうである。
というのは、『通典』には、どうやら次のような五種類の琵琶が説明されているのではなかろうかと、筆者は解釈するからである。
秦漢子、曲項、秦漢(五絃とは異)、五絃、阮咸(秦漢子とは異)
そして、この「秦漢」こそ、正倉院の琵琶に画かれている型の琵琶ではなかろうかと、筆者は想像する。
そこで、本稿では以上のように考えるわけを、『通典』の内容に沿って、それぞれの琵琶についての記録の内容を再確認しながら、整理してみようと思う。
なお、たかが琵琶かとは思わないでほしい。
なぜなら、南北朝の末頃、中国音楽は乱れに乱れていたが、隋代にそれを正し周代からの伝統に立ち戻るべく大いに議論が交わされたとき、本来あるべき正しい音を知るのに用いられた楽器こそ琵琶だからである(注4)。
したがって、当時においては、琵琶こそ中国音楽の命の恩人であったといっても過言ではない。
ちなみに、近年の説によれば、そのとき用いられた「亀茲琵琶」あるいは「胡琵琶」という琵琶は「五絃」であったとされるが(注5)、実はそうではなかった可能性がある。
そこで、本稿ではこの点についてもあわせて検討してみることにしたい。
二 『通典』琵琶の起源
『通典』は、唐の杜佑が八〇一年頃に完成させた、古代よりそれまでの諸制度の変遷をまとめた文献で、正倉院の琵琶とはかなり近い時代の資料である。
とくにその樂典巻一百四十四樂四、八音、絲五に見られる「琵琶」と「阮咸」の項は、中国の琵琶を検討するとき、おそらくまず最初に目にするもので、それは『隋書』音樂志に見られる内容とならんで、琵琶についての最も代表的な古くて詳しい記録である。
『通典』の「琵琶」の項には、まず琵琶の起源がよくわからないことについて、大方次のようなことが記されている。
(なお、段落分けは、筆者の判断による。
)
(『通典』通釈)琵琶、晉の傅玄の「琵琶賦」に曰く。
「前漢の武帝は、烏孫公主を西域の烏孫王昆彌に嫁がせることにしたが、公主が行く道で思い悲しむのをあわれに思った。
それゆえ工匠に命じて箏と筑に手を加えて馬上で用いる楽器を作らせた。
(あるいはこれが琵琶の起源かもしれない)。
今、その楽器を見るに、中空となっているのは天地を象徴している。
円型の槽(胴体)と直項(まっすぐのくび)は陰陽を表している。
柱(絃を支えるところ)は十二あり六律六呂を割り当てている。
四絃は四季の法則にしたがっている。
その土地の人々がそれを「琵琶」と呼んだので、それを名とした。
よその国でもわかりやすいように、その土地の言葉にしたがったのである。
後漢の應劭の『風俗通』によれば、手を使って演奏をするのを「琵琶」というのにちなんで、それを名とした。
後漢の劉煕の『釋名』によれば、手をおし前にやるのを「批」といい、手を引き返すのを「把」という。
一方、三國魏の杜摯によれば、秦は長城之役で人々を苦しめたが、人々は★(トウ)〈兆カンムリ+鼓〉(ふり鼓)に絃を張りそれを鼓打って苦しみを紛らしたという。
(あるいはこれが琵琶の起源であるとも考えられるが、)以上のいずれがまことであるかは、いまだ詳しくはわからない。
」(ここまでが傅玄の言か。
)その楽器は、朝會の楽器としては用いられていない。
(原文)琵琶。
傅玄琵琶賦曰。
漢遣烏孫公主嫁昆彌。
念其行道思慕。
故使工人裁箏筑為馬上之樂。
今觀其器。
中虚外實天地象也。
盤圓柄直陰陽敘也。
柱十有二配律呂也。
四絃法四時也。
以方俗語之曰琵琶。
取其易傳於外國也。
風俗通曰。
以手琵琶因以為名。
釋名曰。
推手前曰批。
引手却曰把。
杜摯曰。
秦苦長城之役。
百姓絃★(トウ)而鼓之。
並未詳孰實。
其器不列四廂。
以上を見るに、まず傅玄の「琵琶賦」というが、すでに知られているとおり、以上はその賦の序である。
たとえば、『太平御覧』巻五百八十三には、傅玄「琵琶」序として以上の文が引かれている。
また、『通典』の引くところによれば、琵琶の始まりは前漢の武帝の頃か、あるいは、秦の始皇帝の頃かよくわからないようである。
ちなみに、『太平御覧』に引く「琵琶」序によれば、傅玄はどちらかといえば、前漢の頃かと考えていたようであるが、
『太平御覧』巻五百八十三
傅玄琵琶序曰。
……以意斷之。
烏孫近焉。
一方、『通典』の著者である杜佑は、そのようにはいいきれないと考えたようで、そのために傅玄の序を引くときにその箇所を削除したのであろう。
また、杜佑がそのように疑ったのは、次に見られるように、「秦漢子」という琵琶が秦の制を伝えているものかもしれないと考えたためのようである。
三 秦漢子(秦琵琶、円型直項四絃十二柱)
『通典』は、次に「秦漢子」という琵琶について説明する。
(『通典』通釈、琵琶つづき)今すなわち唐代の清楽では琵琶が演奏される。
その琵琶は俗に「秦漢子」と呼ばれ、円型の槽で長い項(くび)をしており小型である。
あるいは秦の絃★(トウ)(鼓に絃を張ったもの)の制を残したものであるかもしれない。
傅玄が円型直項で十二柱といっている(のが、それである。
)一方、その他(すなわち以下にあげる「曲項」と「秦漢」と「五絃」)は、みな充上鋭下(一方が膨らみ一方が尖ったすなわち梨型)をしている。
(原文)今清樂奏琵琶。
俗謂之秦漢子。
圓體修頸而小。
疑是絃★(トウ)之遺制。
傅玄云體圓柄直柱有十二。
其他皆充上鋭下(注6)。
以上を見るに、さきにあげた琵琶の起源についての傅玄の「琵琶賦」序を参考にすると、「秦漢子」は、中国起源の琵琶で円型直項四絃十二柱であり、遅くとも晉代には登場していたことになる。
なお、それが「秦の絃★(トウ)の制を残したもの(絃★(トウ)之遺制)」という点にもとづき絃★(トウ)が三絃なので「秦漢子」も三絃であったとする説もあるが(注7)、傅玄はさきで見たように「四絃は四季の法則にしたがう(四絃法四時)」といっているので、四絃であったと解釈すべきであろう。
また、賦のタイトルから見て、晉代に琵琶といえば「秦漢子」であったことが理解されよう。
また、梁の沈約の『宋書』には、当時の琵琶についての説明があるが、『通典』に同じく、傅玄の賦が引かれるほかは「その楽器は、朝會の楽器としては用いられていない(其器不列四廂)」という句が記されているだけである。
(あるいは、「其器不列四廂。
」という句も傅玄の序に述べるところであったかもしれない。
)『宋書』巻十九
琵琶。
傅玄琵琶賦曰。
漢遺烏孫公主嫁昆彌。
念其行道思慕。
故使工人裁箏筑為馬上之樂。
欲從方俗語。
故名曰琵琶。
取其易傅於外國也。
風俗通云。
以手琵琶。
因以為名。
杜摯云。
長城之役。
弦★(トウ)而鼓之。
並未詳孰實。
其器不列四廂。
したがって、南朝の宋においても琵琶といえば「秦漢子」のことであったようである。
その後、唐代には琵琶といえば「曲項」を意味するようになるようだが、どうやらそれまでは琵琶といえば「秦漢子」であったように思われる。
また、『通典』によれば、「秦漢子」は清楽に用いられていたというが、清楽に用いられていた琵琶としては、ただ「秦琵琶」があげられるだけである。
『通典』巻一百四十六清樂
樂用鐘一架。
……秦琵琶一。
これにより、「秦漢子」が「秦琵琶」とも呼ばれていたことが知られる(注8)。
なお、清楽は、『隋書』によれば、漢以来の楽曲で、隋は陳を滅ぼした後にそれを得たといわれる。
『隋書』巻十五
清樂其始即清商三調是也。
並漢來舊曲。
樂器形制。
歌章古辭。
與魏三祖所作者。
皆被於史籍。
屬晉朝遷播。
夷羯竊據。
其音分散。
苻永固平張氏。
始於涼州得之。
宋武平關中。
因而入南。
不復存於内地。
及平陳後獲之。
その後、『通典』によれば、清楽は唐に伝わったが、則天武后の長安年間(七〇一-七〇五)以降廃れたようである。
『通典』一百四十六、清樂
隋室以來日益淪缺。
大唐武太后之時。
猶六十三曲。
…自長安以後。
朝廷不重古曲。
工伎轉缺。
おそらく、それにともない「秦漢子」もあまり用いられなくなったのであろう。
武后の時代に「秦漢子」に類似した「阮咸」が墓中より見いだされたときに、誰もそれが何であるかわからなかったという話(後述)は、そのことを伝えているもののようにも思われる。
四 曲項(梨型曲項四絃四柱)
『通典』は、次に「曲項」という琵琶について説明する。
(『通典』通釈、琵琶つづき)「曲項(くびが曲がった琵琶)」は、作りがやや大型で、胡中(すなわち西域)起源の琵琶である。
俗に漢の制といわれる。
(この箇所は「秦漢」の説明が挿入される。
)『梁史』によれば、侯景は梁の簡文帝を殺すとき、太楽令の彭雋に曲項琵琶をもたせ帝が酒盛りするのにしたがわせたといわれる。
(これは南朝における「曲項」についての一番古い記録である。
)したがって、南朝にはそれまで「曲項」はなかったようである。
(原文)曲項。
形制稍大。
本出胡中。
俗傳是漢制。
(兼似兩制者謂之秦漢蓋謂通用秦漢之法)梁史稱。
侯景之害簡文也。
使太樂令彭雋齎曲項琵琶。
就帝飲。
則南朝似無曲項者。
以上を見るに、「曲項」は西域起源で、また、さきで見たとおり梨型であった。
さらには、すでに指摘があるとおり、また、以下に見るように、唐代においては琵琶といえば「曲項」(注9)のことであったようで、それは梨型四絃四柱であった。
まず、この点をしめすものとして、七五六年に記された『東大寺獻物帳』以来「琵琶」の名称をもって正倉院に伝わる琵琶が梨型四絃四柱の「曲項」であることがあげられよう(図3)(注10)。
また、当時の中国における同型の琵琶の流行は、考古学資料によっても確認が可能である(注11)。
また、唐代において一般に琵琶と呼ばれていたものが、「五絃」や「阮咸」ではなかったことは、唐の段安節の『樂府雜録』に「琵琶」、「五絃」、「阮咸」の項がそれぞれ見られることや、唐の白居易に「琵琶」、「五絃」、「阮咸」についてそれぞれ詩があることなどからも理解されよう。
また、それが西域起源の「曲項」であり、中国起源の「秦漢子」ではなかったことは、たとえば、白居易の「聽曹剛琵琶兼示重蓮」という詩に「胡啼番語兩玲瓏」という句や李★(キョウ)〈山ヘン+喬〉の「琵琶」という詩に「本是胡中樂」という句が見られ、西域との関連が伺われることからも知られよう。
また、それが「秦漢」ではなかったことは、「秦漢」の流行が他の型の琵琶と比べて考古学的に確認できないこと、あるいは宋になってからの文献かもしれないが『太平御覧』に引く『音律圖』に「「秦漢」は、その起源はよくわからない。
「琵琶」と同様であるが、目を開かないところが異なっている」(後述)とあることなどからも察せられよう。
『太平御覧』巻五百八十四に引く『音律圖』
又曰。
秦漢。
未詳所起。
與琵琶同。
以不開目爲異。
したがって、唐代において一般に琵琶と呼ばれていたものは、「五絃」でも「阮咸」でも「秦漢子」でも「秦漢」でもなかったようであるから、「曲項」であったということになろう。
「曲項」の起源については、『通典』の以上の内容のほか、たとえば、『隋書』が西域起源であることを明言している。
『隋書』巻十五
今曲項琵琶。
豎頭箜篌之徒。
並出自西域。
非華夏舊器。
詳しくは考古学的研究により、「曲項」はペルシャ(イラン)起源であるとされる(注12)。
どうやらそのとおりのようで、現在のところそれを否定する資料は見あたらない。
また、近年、「碎葉琵琶」は「曲項」のことであるとする説が登場している(注13)が、あるいはそのとおりかもしれない。
その説にいうごとく、たとえば、唐の劉商の「胡笳十八拍」の第七拍には「碎葉琵琶夜深怨。
」という句が見られる。
そして、宋の高承の『事物紀原』によれば、琵琶は「『事始』によれば、碎葉国が献じたものであると云われる」。
『事物紀原』巻二、琵琶
事始云。
或云。
碎葉國所獻。
碎葉は、『新唐書』によれば、西域の国、康国にあった都市である。
『新唐書』巻二百二十一下、西域下、康
有碎葉者。
出安西西北千里所。
康国は、『隋書』によれば、琵琶、五絃で知られていた。
『隋書』巻八十三、康国
有大小鼓。
琵琶。
五絃。
そして、唐代には「曲項」の名手として康崑崙という人物がおり、その姓から考えて康国との関わりがありそうなので、「曲項」と康国、碎葉との関連が考えられるわけである。
ちなみに、康崑崙は、『新唐書』によると、西涼が献じた涼州曲を徳宗の貞元年間(七八五-八〇五)のはじめに琵琶で演奏したことで知られる。
『新唐書』巻二十二
涼州曲。
本西涼所獻也。
其聲本宮調。
有大遍小遍。
貞元初。
樂工康崑崙寓其聲於琵琶。
奏於玉宸殿。
因號玉宸宮調。
合諸樂。
則用黄鍾宮。
唐の元★(シン)〈禾ヘン+眞〉の「琵琶歌」という詩では賀懐智、段師とともに康崑崙は琵琶の名手としてあげられている。
「琵琶歌」
…玄宗偏許賀懐智。
段師此藝還相匹。
自後流傳指撥衰。
崑崙善才徒爾爲。
…
元★(シン)は白居易の親友で同様な詩を多く作っているので、その「琵琶歌」にいう琵琶も「曲項」であろうと考えられ、これにより康崑崙らが弾いていたのは「曲項」であったらしいことが知られる。
また、康崑崙の演奏については、『新唐書』には「おし下げる音が多く、引き上げる音が少ない。
いまだ五十四絲の大絃は弾けない」という李★(ウ)〈王ヘン+禹〉による批評が見られる。
『新唐書』巻八十一
又聞康昆崙奏琵琶曰。
琵聲多。
琶聲少。
是未可彈五十四絲大絃。
この「五十四絲大絃」を「阮咸」のこととし、康崑崙は「阮咸」が弾けなかったとする説もあるが(注14)、これは「曲項」のいずれかの絃について述べている可能性もあるかもしれない。
後考を待ちたい。
また、『樂府雜録』の「琵琶」の項には、鄭中丞は「胡琴」が得意であったという記事が見られるが、
『樂府雜録』琵琶
文宗朝有内人鄭中丞。
善胡琴。
内庫有二琵琶。
…飲於花下。
酒酣。
不覺朗彈敷曲。
…曰此鄭中丞琵琶聲也。
以上は「琵琶」の項にある記事であり、また、文脈上からも「胡琴」は「曲項」のことであるように思われる。
ちなみに、日本において「曲項」が「胡琴」とも呼ばれていたことについては、すでに『古事類苑』樂舞部二十八琵琶に詳しい。
なお、南北朝末から隋にかけての記録に散見する「亀茲琵琶」、「胡琵琶」と呼ばれていた琵琶も、「五絃」であるとするのが近年の説であるが、実は「曲項」のことであろうと、筆者は考えている(「五絃」に後述)。
五 秦漢(梨型直項四絃四柱無目)
『通典』は、次に「秦漢」という琵琶について説明する。
なお、「秦漢」が独自の型をした琵琶であったことは本稿でとくに指摘しておきたい点である。
(『通典』通釈、琵琶つづき)両制すなわち秦と漢の制を兼ねあわせたようなものを「秦漢」という。
思うに、秦と漢の奏法が通用するのであろう。
(原文)兼似兩制者謂之秦漢。
蓋謂通用秦漢之法。
以上を見るに、秦の制とは「秦漢子」で見たような円型直項十二柱の制で、漢の制とは「曲項」で見たような梨型曲項四柱の制であろう。
また、さきで『通典』は、「秦漢子」の他(すなわち「曲項」と「秦漢」と「五絃」)は、みな充上鋭下(すなわち梨型)であるといっているので、柱についてはわからないが、「秦漢」は梨型直項であっただろうと想像される。
なお、秦漢が十二柱ではなく四柱であったことは次の資料により知られる。
『太平御覧』に引く『音律圖』
「秦漢」は、その起源はよくわからない。
「琵琶(おそらく「曲項」)」と同様であるが、目(「曲項」に見られる半月のようなものか、図4)を開かないところが異なっている。
四絃で四隔(したがって四柱)で、散聲(押さえないでの音)四、隔聲(柱間を押さえての音か)十六、あわせて二十の聲をもち、律呂にかなった調べをなす。
『太平御覧』巻五百八十四に引く『音律圖』
又曰。
秦漢。
未詳所起。
與琵琶同。
以不開目爲異。
四絃四隔。
合散聲四。
隔聲十六。
惣二十聲。
隨調應律。
以上は、「秦漢」を知る上で貴重な資料である。
すなわち、「秦漢」は、当時琵琶と呼ばれていたらしい「曲項」とは同じものではないようで、また、四柱というので十二柱の「秦漢子」でも十三柱の「阮咸」(詳しくは後述)でもなく、さらには、四絃というから「五絃」でもないこと、明白である。
したがって、近年見られる『通典』にある「秦漢」という言葉は「秦漢子」の説明であるとみなす説(注15)や、「秦漢」は「五絃」であるとする説(注16)は、明らかに不適切である。
また、『音律圖』は目を開かないのが「曲項」との違いであるとするが、もし「秦漢」が「曲項」のように梨型曲項四柱であれば、秦の制である円形直項十二柱のいずれをも襲っていないことになってしまう。
それでは、『通典』の説明は成り立たない。
したがって、「秦漢」は、秦の直項と漢の梨型四柱の両制を兼ねたようなものであったと、筆者は想像する。
そして、さらに四絃で無目の琵琶を探してみるに、正倉院の琵琶の捍撥に画かれている琵琶が、あるいはそうではなかろうかと考える。
なお、それは有目のようにも見えないことはないが、赤外線写真を見るに無目のようである(図5)(注17)。
また、四柱であるかどうかは確認できないが、「曲項」の実例と比較してみるに四柱である可能性は大いにあるのではなかろうか。
ついでだが、「秦漢」は、すでに元の頃には廃れ忘れられていたらしく、元の馬端臨の『文獻通考』には「秦漢子」との混乱が見られる(注18)。
『文獻通考』巻一百三十七秦漢琵琶
本出於胡人。
絃★(トウ)之制。
圖體修頸如琵琶而小。
柱十有二。
惟不開目爲異。
蓋通用秦漢之法。
四絃四隔。
合散聲四。
隔聲十二。
惣二十聲。
六 五絃(梨型直項五絃四柱一孤柱あるいは五柱)
『通典』は、次に「五絃」という琵琶について説明する。
(『通典』通釈、琵琶つづき)五絃琵琶は、作りがわずかに小型で、おそらく北国起源であろう。
(原文)五絃琵琶稍小。
蓋北國所出。
以上を見るに、「五絃」はわずかに小型であったといわれるが、この点は考古学資料によって確認が可能である(図6)。
また、すでに考古学的研究により、「五絃」の起源はおそらくインドであろうことがわかっているが(注19)、唐代の中国人は少なくともそのようには思っていなかったらしく、とりあえず北国起源とするものの、よくわかっていなかったようである。
したがって、この点は、「五絃」が西域音楽の一大中心都市であった亀茲を大いに代表する楽器として中国に導入されたとする近年の説を疑ってみる理由になるのではなかろうか。
その前に「五絃」の型をみるに、さきで『通典』がいうところや正倉院に伝わる「五絃」(図7)や、さらには次にあげる資料などにより、「五絃」が梨型直項四柱一孤柱(あるいは五柱)であったことが知られる。
たとえば、諸橋轍次『大漢和辭典』の「五絃(五弦)」に引く『樂苑』には「「五絃」は、その起源はよくわからない。
形は「琵琶」のようで、五絃四隔(したがって四柱)あり孤柱が一、散聲(押さえないでの音)五、隔聲(柱間を押さえての音か)二十、柱聲(孤柱を押さえての音)一、あわせて二十六聲をもち、律呂にかなった調べをなす。
」とある。
『樂苑』
五絃未詳所起。
形如琵琶。
五絃四隔。
孤柱一。
合散聲五。
隔聲二十。
柱聲一。
總二十六聲。
随調應律。
ちなみに、以上は、「五絃」の型についての最も詳しい説明である。
なお、『樂苑』は逸書で、『文獻通考』巻一百八十六には「樂苑五巻。
崇文總目。
不著撰人名氏。
敘樂律聲器凡二十篇。
」とあるほかは、『太平御覧』引書目、『宋史』藝文志などに書名が見えるくらいで、『舊唐書』、『新唐書』には記載は見られない。
したがって、『大漢和辭典』所載の内容は貴重である。
また、唐代の「五絃」の実例として伝わる正倉院の「五絃」は五柱であるが、もとは四柱一孤柱であったらしく、後世の修理の際に孤柱が一柱に改められ五柱になったらしいことは、近年の指摘のとおりであろう(注20)。
なお、五柱の「五絃」もあったらしいことをしめす資料も見られる(注21)。
河南省安陽市にある隋の張盛の墓より発掘された伎楽俑がその例である(図8)。
ところで、「亀茲琵琶」は「五絃」のことであるとするのが近年の説である(注22)。
また、「亀茲琵琶」は「胡琵琶」とも呼ばれていたといわれる。
「亀茲琵琶」が「胡琵琶」とも呼ばれていたことはすでに明らかで、たとえば、『通典』によれば、祖父の代からの「亀茲琵琶」の奏法を受け継いだ曹妙達は北齊の文宣帝に重く用いられたというが、
『通典』巻一百四十六
龜茲樂者。
…後魏平中原。
復獲之。
有曹婆羅門。
受龜茲琵琶於商人。
代傳其業。
至於孫妙達。
尤為北齊文宣所重。
常自撃胡鼓和之。
『北史』によれば、彼は「胡琵琶」が得意であったといわれる。
『北史』巻九十二
其曹僧奴。
僧奴子妙達。
以能彈胡琵琶。
甚被寵遇。
倶開府封王。
以上により、両者が同じものであったことが理解されよう(注23)。
一方、「亀茲琵琶」は「五絃」のことであるとされるが、そうではなく「曲項」であった可能性もありそうである。
たとえば、『通典』によれば、北魏の宣武帝の時代以降、西域の音楽が流行しはじめ、北魏末の遷都の頃には「屈茨琵琶五絃」などの楽器を用いた音楽が人々を大いに感動させていたといわれる。
『通典』巻一百四十二
自宣武已後。
始愛胡聲。
★(キ)〈サンズイ+自〉於遷都。
屈茨琵琶五絃。
箜篌。
胡★(ショク)〈竹カンムリ+直〉。
胡鼓。
銅★(ハツ)〈金ヘン+跋のツクリ〉。
打沙羅。
胡舞。
鏗鏘★(トウ)〈金ヘン+堂〉★(ソウ)〈金ヘン+荅〉。
(上音湯。
下音塔。
)。
洪心駭耳。
以上の「屈茨」は、『通典』によれば、「亀茲」のことであろう。
『通典』巻一百九十一
龜茲。
一曰邱茲。
又曰屈茨。
したがって、「屈茨琵琶五絃」とは「亀茲琵琶」と「五絃」のことであると考えることができよう。
すなわち、「亀茲琵琶」と「五絃」は異なるものと解釈できよう。
「亀茲琵琶」を「五絃」のこととする説では、以上の「屈茨琵琶五絃」はテ
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