方丈记古现日全+作者年谱等.docx
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方丈记古现日全+作者年谱等.docx
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方丈记古现日全+作者年谱等
【ゆく河の流れ】
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。
或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。
或は大家(おほいへ)亡びて小家(こいへ)となる。
住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中(うち)に、わづかにひとりふたりなり。
朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。
また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。
或は露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
(現代語訳)
ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいる例はない。世の中に存在する人と、その住みかもまた同じだ。
玉を敷きつめたような都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い人や低い人の住まいは、時代を経てもなくならないもののようだが、これはほんとうかと調べてみると、昔からあったままの家はむしろ稀だ。
あるものは去年焼けて今年作ったものだ。
またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっている。
住む人もこれと同じだ。場所も変らず住む人も多いけれど、昔会った人は、二、三十人の中にわずかに一人か二人だ。
朝にどこかでだれかが死ぬかと思えば、夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、ちょうど水の泡とよく似ている。
私にはわからない、いったい生まれ、死ぬ人は、どこからこの世に来て、どこへ去っていくのか。またわからないのが、一時の仮の宿に過ぎない家を、だれのために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。
その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花と、その花につく露との関係と変わらない。
あるときは露が落ちてしまっても花は咲き残る。残るといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで露はなお消えないでいる。
消えないといっても夕方を待つことはない。
【安元の大火】
予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋(しゅんじう)をおくれるあひだに、世の不思議を見る事ややたびたびになりぬ。
去(いんし)、安元三年四月(うづき)廿八日かとよ。
風烈(はげ)しく吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時(とき)許(ばかり)、都の東南(たつみ)より火出で来て、西北(いぬゐ)に至る。
はてには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰(ちりはい)となりにき。
火(ほ)もとは、樋口富(ひぐちとみ)の小路(こうじ)とかや。
舞人(まひびと)を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。
咲き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇(あふぎ)をひろげたるがごとく末広になりぬ。
遠き家は煙(けぶり)に咽(むせ)び、近きあたりはひたすら焔(ほのほ)を地に吹きつけたり。
空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれなゐ)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。
その中の人、現(うつ)し心あらむや。
或(あるい)は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、からうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず。
七珍万宝さながら灰燼(くわいじん)となりにき。
その費え、いくそばくぞ。
そのたび、公卿の家十六焼けたり。
ましてその外、数へ知るに及ばず。惣(すべ)て都のうち、三分が一に及べりとぞ。
男女死ぬるもの数十人、馬・牛のたぐひ辺際を知らず。
人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。
(現代語訳)
私がものの道理を理解できるようになってから、四十年余の歳月を送ってきた間に、世の中の思いもよらない出来事を見ることが、次第に度重なってきた。
去る安元三年四月二十八日であったろうか、風が激しく吹いて、静かにおさまらなかった夜、午後八時ごろ、都の東南から火が出て、西北に燃えていった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで燃え移り、一晩のうちにすっかり塵灰になってしまった。
火元は樋口富小路とかいうことだ。
舞人を宿泊させた仮小屋から出火したのだという。
吹き荒れる風によって、あちらこちらに燃え移っていくうちに、火事は扇を広げたように末広がりになっていった。
遠い家は煙にむせび、近いあたりはひたすら炎を地面に吹きつけた。空には灰を吹き上げたので、それが火の光に照り映えて、空一面が真っ赤になっている中を、風の勢いに堪えきれず吹きちぎられた炎が、飛ぶようにして、一町も二町も越えて移っていく。その中にいた人は、生きた心地がなかったにちがいない。
あるものは煙にむせんで倒れ伏し、あるものは炎に目がくらんでそのまま(焼け)死んだ。あるものは身ひとつで、やっとのことで逃げたものの、家財道具を取り出すこともできなくて、多くの財宝はすっかり灰になってしまった。
その損害はいかほどであったろうか。
その時の火事で、公卿の家は十六焼けた。
ましてそのほかの一般の小さな家は、数えることもできない。
焼失した家屋は全部で都の三分の一にも及んだという。男女の死者は数十人、馬や牛のたぐいは際限がない。
人の営みは、すべて愚かしく、中でも、こんなに危険な都の中に家をつくるといって、財産を使い、あれこれ苦心することは、とりわけつまらないことだ。
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【治承の辻風】
また、治承(ぢしよう)四年卯月(うづき)のころ、中御門京極(なかみかどきやうごく)のほどより大きなる辻風(つじかぜ)起こりて、六条わたりまで吹けることはべりき。
三、四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。
さながら平(ひら)に倒(たふ)れたるもあり、桁(けた)・柱ばかり残れるもあり。
門(かど)を吹きはなちて四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて隣と一つになせり。
いはむや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮(ひはだ)・葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木(こ)の葉の風に乱るるがごとし。
塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。
かの地獄の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。
家の損亡(そんまう)せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。
この風、未(ひつじ)の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。
辻風は常に吹くものなれど、かかることやある、ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひはべりし。
(現代語訳)
また、治承四年四月のころ、中御門京極のあたりから大きなつむじ風が起こり、六条大路のあたりまで吹き抜けたことがあった。
三、四町を吹きまくる間に、巻き込まれた家々は、大きな家も小さな家も一つとして壊れなかったものはなかった。
そのまま平らにつぶれているものもあり、桁や柱だけが残っているのもある。
門を吹き飛ばして、四、五町も離れた場所に落ち、また、垣根を吹き払って隣の家と一つになっている。
まして、家の中の家財道具はことごとく空に吹き上げられ、檜皮や葺板のたぐいは冬の木の葉が風に乱れ飛ぶようだった。
塵を煙のように吹きたてているため、まったく何も見えず、風がものすごく鳴り響くので、人々の話し声も聞こえない。
あの地獄に吹く業の風も、このくらいだろうと思われる。
家屋が壊れて失われたのみでなく、これを修繕しているときに怪我をして、体が不自由になった人は数知れない。
この風は、南南西の方角に進み、多くの人々を嘆かせた。
つむじ風はつねに吹くものだが、これほどひどいものがあろうか、ただごとではなかった、しかるべき神仏のお告げであろうかなどと疑ったことだ。
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【福原遷都】
(一)
また、治承四年水無月(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)りはべりき。
いと、思ひの外(ほか)なりしことなり。
おほかた、この京の初めを聞けることは、嵯峨(さが)の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。
ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へ合へる、げにことわりにも過ぎたり。
されど、とかくいふかひなくて、帝(みかど)より初め奉りて、大臣・公卿皆ことごとく移ろひたまひぬ。
世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。
官(つかさ)・位に思ひをかけ、主君の陰を頼むほどの人は、一日なりともとく移ろはむと励み、時を失ひ世に余されて期(ご)する所なきものは、愁(うれ)へながら止まりをり。
軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。
家はこぼたれて淀河(よどかは)に浮かび、地は目の前に畠(はたけ)となる。
人の心皆改まりて、ただ馬・鞍(くら)をのみ重くす。
牛・車を用する人なし。
西南海(さいなんかい)の領所(りやうしよ)を願ひて、東北の庄園(しやうゑん)を好まず。
(現代語訳)
また、治承四年六月のころ、突然遷都が行われた。
まことに思いがけないことだった。
そもそも、この平安京の起源について聞いていることは、嵯峨天皇の御代に都と定まって以来、すでに四百年余りも経っている。
よほどの理由がなくては、そう簡単に都が改められるはずもないから、このたびの遷都を世の人々が不安になり、心配しあったのは、まったく当然といえば当然だった。
しかしながら、あれこれ言ったところで仕方がなく、天皇をはじめ、大臣・公卿も皆すべて新都へ移ってしまわれた。
そうなると、朝廷に仕え官職にある人は、誰がひとりこの旧都に残っていようか、残るはずもない。
官職や位の昇進を望み、主君の恩恵に浴することを期待する人たちは、一日でも早く新都に移ろうと努め、時勢に合わず世の中から取り残されて希望を持たない人たちは、不満をうったえながらも都にとどまった。
軒を争うように立ち並んでいた人々の住まいは、日が経つにつれて荒れていく。
家は取り壊されて淀河に浮かび、その跡地は畑となった。
人々の気持ちはみな変わり、ただ馬や鞍ばかりを重んずる。
牛や車を用いる人はいない。
そして、新都から近い九州や四国の領地を望み、東北の庄園は敬遠された。
(二)
その時おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。
所のありさまを見るに、その地、ほど狭(せば)くて条理を割るに足らず。
北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。
波の音、常にかまびすしく、塩風ことに激し。
内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様(やう)変はりて優なるかたもはべり。
日々にこぼち、川も狭(せ)に運び下(くだ)す家、 いづくに作れるにかあるらむ。
なほ空しき地は多く、作れる屋(や)は少なし。
古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。
ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。
もとよりこの所にをるものは、地を失ひて愁ふ。
今移れる人は、土木のわづらひあることを嘆く。
道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠(いくわん)・布衣(ほい)なるべきは、多く直垂(ひたたれ)を着たり。
都の手振りたちまちに改まりて、ただひなびたる武士(もののふ)に異ならず。
世の乱るる瑞相(ずいさう)とか聞けるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず、民の愁へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰りたまひにき。
されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとのやうにしも作らず。
伝へ聞く、いにしへのかしこき御世(みよ)には、憐みを以て国を治めたまふ。
すなはち、殿(との)に茅(かや)ふきて、その軒をだに整へず、煙のともしきを見たまふ時は、限りある貢物(みつぎもの)をさへ許されき。
これ、民を恵み、世を助けたまふによりてなり。
今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
(現代語訳)
その時分、たまたまついでの用事があって、摂津の国の新しい都に行った。
その場所のありさまを見ると、その土地は面積が狭くて、条理を区画するには広さが足りない。
北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。
波の音がいつも騒がしく、潮風がとくに激しい。
皇居は山の中にあるので、あの木の丸殿もこのようだったかと思われて、かえって風変わりで優雅な趣もある。
毎日のように打ち壊し、川も狭くなるほどに筏(いかだ)を組んで流して運ぶ家々は、どこに造っているのだろう。
まだ空き地が多く、造られた家は少ない。
旧都はすでに荒廃し、新都はまだ完成していない。
ありとあらゆる人々は、みな浮雲のような心地をしている。
以前からこの土地にいる者は、土地を取り上げられて不満を訴えている。
新しく移ってきた人は、家の建築や道路の普請などの労苦を嘆いている。
路上を見れば、牛車に乗るはずの公卿が武士のように馬に乗り、衣冠や布衣であるはずなのに、多くが直垂を着ている。
都の風俗は急速に変わり、ただの田舎めいた武士と異なるところがない。
こうしたことは世の中が乱れる前触れと聞いていたが、まさにそのとおりで、日が経つにつれて世間が騒がしくなり、人心も定まらず、民衆の心配がとうとう現実となる事態が起こり、同じ年の冬に、天皇はやはり京都にお帰りになってしまわれた。
しかし、広く取り壊してしまった家々はどのようになったのだろうか。
すべてが元通りに再建されたわけではなかった。
伝え聞くことは、昔の優れた天子の御代には、天子は愛情を持って国を治められた。
すなわち、宮殿の屋根には茅をふいて、その茅ぶきの軒さえ切りそろえることなく、立ち上る煙が少ないのを御覧になると、限られた租税までも免除なされた。
これは、民をお恵みになり、世の中をお救いなさろうとされたからだ。
今の世のありさまがいかに乱れているか、昔と比べればきっとよく分かる。
(注)木の丸殿 ・・・ 丸太で造った宮殿。
斉明天皇が新羅遠征に際し、筑前国の朝倉の山中に建てられた御殿を指す。
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【養和の飢饉】
(一)
また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇(けかつ)して、あさましき事侍りき。
或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。
むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。
これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。
さまざまの御祈(おんいのり)はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。
京のならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。
念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。
たまたま換(か)ふるものは、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。
乞食(こつじき)、路のほとりに多く、愁(うれ)へ悲しむ声耳に満てり。
(現代語訳)
また養和ころだったか、年月が久しくなってよく覚えていないが、二年の間、世の中が飢饉となって、驚くほどひどいことがあった。
春・夏に旱魃(かんばつ)、あるいは秋には大風・洪水など悪いことが続いて、穀物はことごとく実らない。
かいもなく春に耕し、夏に植える仕事だけあって、秋に稲刈りをし、冬に収穫するにぎやかさはない。
このため、諸国の民は、ある者は土地を捨てて国境を出て放浪し、ある者は家をかえりみず山に住む。
さまざまな御祈祷がはじまり、特別な秘法などが行われるが、まったく効果がない。
都のならわしとして、何事も田舎に頼っているのに、何も運ばれてこないので、体裁をとりつくろっていられない。
がまんできず、さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。
たまたま交換する者は、金銭の価値を軽くし、穀物の価値を重んじる。
乞食は路上に増え、悲しむ声は耳に充満した。
(二)
前の年、かくの如く辛うじて暮れぬ。
明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まささまにあとかたなし。
世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水(せうすい)の魚(いを)のたとへにかなへり。
はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごと乞ひ歩(あり)く。
かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。
築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。
取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。
いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤山(しづやま)がつも力尽きて、薪(たきぎ)さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。
一人が持ちて出でたる価(あたひ)、一日が命にだに及ばずとぞ。
あやしき事は、薪の中に、赤き丹(に)着き、箔(はく)など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋(たづ)ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。
濁悪世(ぢょくあくせ)にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
(現代語訳)
前の年は、こうしてやっとのことで暮れた。
翌年は立ち直るだろうかと思っていると、立ち直るどころか、その上に疫病までが重なって、いっそうひどい状況となり、何もかもだめになった。
世間の人々は皆飢えきっており、日が経つにつれて行き詰っていくありさまは、「少水の魚」のたとえにも等しい。
ついには、笠をかぶり、足を包んで、よい身なりをした婦人までが、一途に家々に物乞いをして歩いている。
このように困窮した人々は、今歩いていたかと見れば、いきなり倒れてしまう。
土塀の前や道端には、飢え死にした者らの数が計り知れない。
死体を取りかたづける術もなく、死臭があたり一面に充満し、腐って変わっていく顔や姿は、むごたらしくて目も当てられないのが多い。
まして、河原などは死体の山で馬や牛車が通れる道さえない。
身分の低い農夫や木こりも力が尽き果て、薪さえ乏しくなっていき、頼るところがない人は自分の家を壊し、それを市に出して売る。
それでも一人が持ち出して売った価は、一日の命をつなぐのにさえ間に合わないという。
けしからんことに、そういう薪の中に赤い丹の塗料がつき、金や銀の箔などが所々にある木がまじっていたので、調べてみると、どうしようもなくなった者が古寺に行き、仏像を盗み、堂の中の仏具を壊して取ってきて、割り砕いて売り出したという。
濁りきった末法の世に生れあい、このような情けない行いを見てしまった。
(三)
また、いとあはれなる事も侍りき。
さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。
その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。
されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。
また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。
仁和寺(にんなじ)に隆暁法院(りうげうほふいん)といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたひ)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。
人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極(きやうごく)よりは西、朱雀(すざく)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。
いはむや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。
いかにいはんや、七道諸国をや。
(現代語訳)
また、しみじみと感動することもあった。
お互いに離れられない夫婦は、その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。
なぜなら、わが身は二の次にして相手をいたわるので、ごくまれに手に入った食べ物も、相手に譲るからだ。
だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。
また、母親の命が尽きているのを知らないで、なおも乳房を吸いながら寝ているという情景もあったそうだ。
仁和寺にいた隆暁法院という人は、これほどに数え切れない人が死んでいくのを悲しみ、死体の首を見るたびに、額に阿字を書いて仏縁を結ばせ成仏できるようになさったという。
死者の数を知ろうと、四月五月の二か月の間に数えたところ、都では、一条から南、九条から北、京極から西、朱雀からは東の路ばたにあった死体は、全部で四万二千三百あまりあったという。
まして言うまでもなく、その前後に死んだ者も多く、また、賀茂河原・白河・西の京、その他もろもろの辺地などを加えていけば、際限もなかろう。
まして、日本全国となると見当もつかない。
(注)阿字 ・・・ 阿という文字。
梵語(古代インド語)の十二母音の一番目で、一切の言語、文字がこの音をもとに生ずるとされた。
【元暦の大地震】
また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。
そのさま、世の常ならず。
山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。
土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。
なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。
都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。
あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。
塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。
地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。
家の内にをれば、たちまちにひしげなむとす。
走り出づれば、地割れ裂く。
羽なければ、空をも飛ぶべからず。
竜ならばや、雲にも乗らむ。
恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚えはべりしか。
かく、おびたたしくふることは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。
世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。
十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。
四大種(しだいしゆ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。
昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みくし)落ちなど、いみじきことどもはべりけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。
すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。
(現代語訳)
また、同じころだったか、ものすごい大地震があったことがある。
そのさまは尋常ではなかった。
山は崩れ、その土が河を
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