走进地球村走进日本日本历史孙德瑜修改稿.docx
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走进地球村走进日本日本历史孙德瑜修改稿
日语学科拓展课程
走进地球村之走进日本——日本历史
◎课程开发背景
经济全球化的背景下,我们身处的上海正努力加速建设成为国际化的大都市。
因此,未来的上海势必更加需求具有国际视野、国际胸怀和国际合作交往能力的优秀人才。
结合学校“培养有教养、有竞争力、有个性、有国际视野的现代人”的办学目标,开发构建具有甘泉特色的拓展性课程。
◎课程目标
《上海市中小学拓展型课程指导纲要》指出,“拓展型课程着眼于激发、培养和发展学生的兴趣爱好,开发学生的潜能,陶冶学生的情操,促进学生个性和社会化的发展,促进学校办学特色的形成。
”本课程希望通过这个平台和途径,能引导学生获取丰富的国际理解的知识和技能,养成开放、平等、尊重、宽容的国际理解态度和全球意识。
能以地球公民的视角认识当今多元文化共存、和平与发展等方面的国际问题,提高与人交往、与人共处、与人合作的能力,培养能够适应开放的国际社会、参与国际事务与竞争的国际化后备人才。
第一节课程简介
一、课程名称
《走进地球村之走进日本——日本历史》
二、课程目标
1.从历史了解日本,并增加相关单词量。
2.通过学习日本历史上发生的有趣事件或历史名人生平中有趣的故
事,激发学习兴趣,开阔视野。
3.体会中日文化的相互交流和相互影响,对历史和现在的中日关系发
表个人的观点。
4.学会总结,注重与同学间的相互合作,课程后通过协同完成海报,
复习学到的知识、自主搜索更多感兴趣的实施文化,提高与人合作的能力。
三、内容分类与课时
本课程属于“自然与人文”类别,总计8课时。
四、核心育人价值
本拓展型课程希望通过一系列对日本历史生动的讲解,让学生对日本历史有初步的认识,体会洋洋历史长河中中日文化的相互交流和相互影响,树立起“地球村民的态度和责任感”,更期望能为学生进一步拓展国际理解知识或能力奠定基础,激发学生成为中日交流的桥梁。
五、教师与学生背景要求
教师:
需要对日本历史有比较详实的了解,并能引导学生合作学习。
学生:
课程适用于高一、高二年级,有一定日语基础的学生,人数限定在35人左右。
六、预期成效
学生从历史各时期了解日本,增加相关单词量。
作为认识和了解日本的窗口,学生能初步了解日本、走近日本,体会中日文化的相互交流和相互影响。
拓宽国际视野,加深国际理解。
通过协同完成海报,学生能复习学到的知识、自主搜索更多感兴趣的实施文化,提高与人合作的能力。
第二节课程实施
一、组织原则
授课主要运用问题驱动法、比较学习法、问题研讨法,小组合作学习的形式等交流互动式的活动教学,使学生由“被动接受者转变为主动的参与者、创造者”,在生动有趣、自由宽松的环境下能畅所欲言,及时把有益的感悟和思想加以内化。
丰富教学手段和方法,增加课堂教学吸引力。
二、配套资源
1.时间安排
该课程安排在高中一、二年级拓展课程中。
2.场地设备
该课程需要多媒体设备,以及小组合作学习教室布局。
3.师资配备
需要所有日语教师具备教授该课程的能力。
4.经费支持
校本教材的印刷费用。
5.教学资源
网络、书籍、讲座等。
第三节课程评价
一、评价内容
1.出勤率(20%):
每位学生给予基本分,以学生是否坚持出席日语课堂学习为考核标准。
2.课堂参与度(10%):
给予课堂上参与讨论,能以不同形式展示的学生加分。
3.考核(70%):
以小组合作形式完成1份有关日本历史的海报制作。
二、评价方法
1.形成性评价
对学生在日常学习过程中的参与度,小组讨论的学习策略等发面的发展状况做出评价。
2.终结性评价
以小组合作形式完成1份有关日本历史的海报制作。
对所完成的海报进行课堂展示后,采取学生投票和教师打分的方式给出等级。
关注每一位组员的参与度,再在每位学生的评分进行相应调整。
三、评价标准
评价级别
评价标准
评价等级
四级
利用上下文理解词义和文章中各句之间的关系。
借助工具书读懂与所学课文难度相当的文章,并从中获取主要信息。
根据不同的阅读目的,选择不同的阅读方法获取信息。
五级
根据上下文预测事情、情节的发展。
借助工具书读懂稍难于课文的文章
在获取主要的信息的基础上,理解文章的主旨、作者的意图。
六级
通过分析句子结构理解难句和长句。
阅读日语报刊中与所学内容相关的新闻报道,获取主要信息。
在教师的帮助下欣赏浅显的日语文学作品。
第四节课程内容
科目框架课程结构:
课时
内容
设计说明
第一课时
绳文时代、弥生时代
学习绳文时代、弥生时代人的生活
第二课时
古墓时代,飞鸟时代
学习古墓时代,飞鸟时代人的生活,了解遣隋使对当时文化的影响
第三课时
奈良时代
学习奈良时代人的生活,了解遣唐使对当时文化的影响
第四课时
平安时代,镰仓时代
学习平安时代,镰仓时代人的生活,了解武士的产生原因
第五课时
室町时代、江户时代
学习室町时代、江户时代人的生活,了解织田信长,丰臣秀吉,德川家康的生平故事
第六课时
明治时代
分组,介绍海报制作要求
小组讨论海报制作主题
了解明治维新的过程,
学习海报的制作方法,
讨论海报制作主题
第七课时
制作海报
锻炼小组合作能力
第八课时
汇报发表
鼓励学生将思考化为行动
第五节课程配套资料
(一)积极开发课件,有效利用网络
教师要有意识地利用电脑、网络等现代化手段,积极引进、开发多媒体课件,丰富课堂教学手段。
让学生通过电脑和网络,根据自己的需要,自主选择学习内容。
(二)挖掘无形资源,鼓励资源共享
学生的学习和生活经验,如看日本影视作品、接触日本朋友、阅读有关日本的书籍等,都可视为无形的资源。
此外,学生运用母语的经验也是一种无形的资源。
教师要充分利用并调动学生已有的母语知识,以取得事半功倍的教学效果。
每个学生都拥有自己的课程资源,应鼓励他们相互交流,共享日语课程资源。
(三)辅助教材
《新しい社会 歴史》 出版社:
東京書籍
縄文時代
約1万2千年前頃から展開された日本列島の新石器時代は縄文時代と呼ばれる。
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。
この頃の日本列島人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴式住居に住んだ。
弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。
雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビエから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。
後期から晩期にかけては稲作も導入された。
南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。
弥生時代
紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。
時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。
稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。
農耕社会の成立によって地域集団が形成された。
農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。
当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
当時の日本列島は中国から倭国と呼ばれた。
大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。
紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。
倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。
大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。
その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。
しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。
卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。
北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。
古墳時代
3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。
3世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。
ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。
この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ多く流入した。
5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢によって冊封体制下に参入することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。
中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。
このころより、大王_(ヤマト王権)や治天下大王と称するようになり、かつ中国の王朝の冊封体制より離脱したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。
この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。
しかし北陸?
近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。
なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。
またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。
こうした内向政な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。
同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。
この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
世界三大陵墓
世界三大陵墓之【秦始皇帝陵】
特征:
世界上【占地最大】和【体积最大】的陵墓,陵墓主体占用面积25万平方米(现残存12万平方米),体积约300万立方米
地址:
陕西省西安市临潼区骊山北麓
世界三大陵墓之【胡夫金字塔】
特征:
世界上【最高大的】陵墓,建成时高度约146.6m(后历经数千年的风沙侵蚀,已降到136.5m左右)
位置:
开罗吉萨高地
世界三大陵墓之【仁德天皇陵】
特征:
世界上【最长的】陵墓,全长约486m
地址:
大阪府堺市大仙町
三大陵墓资料——(某日本网站上有拿三者进行比较的帖子,直接借用数据)
胡夫金字塔:
长230m、宽230m、高146m、体积260万立方米
仁德天皇陵:
长486m、宽305m、高36m、体积140万立方米
秦始皇帝陵:
长350m、宽350m、高76m、体积300万立方米
飛鳥時代
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。
6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。
この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。
6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前半にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。
しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。
7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。
しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。
さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。
天皇号の制定時期は天武期と考えられている。
併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。
日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。
なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。
奈良時代
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。
この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。
王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。
8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。
しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷?
南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷?
隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。
文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。
仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。
平安時代
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。
平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。
そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。
王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。
この受領?
国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。
また地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である、武士階層が登場した。
また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園?
公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。
同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。
平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。
奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名?
片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。
密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。
以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。
武士はどうして生まれたか
平安時代、貴族の目の届かない地方では土地に根付いた勢力が生まれていた。
武器を持ったこれらの武士は、貴族を脅かす存在となる。
武士もかっては貴族だった。
平安時代は貴族文化の全盛期でしたが、すべての貴族がこの世を謳歌していたわけではありません。
むしろ、宮廷の重要な役職は大貴族に独占されていたため、出世の見込みのない下級貴族は、都を捨て地方の国司などに任官し、そのままその地に住み着く者もいました。
これらの土着貴族や、土地の有力者などは自らが開墾した土地、すなわち政府の手の届かない荘園を守るために、兵力をやしなうようになります。
こた。
武器をを持ったこれらの武士は、貴族を脅かす存在となる。
が、やがて武士団となり、地方毎にまとまって有力な豪族を棟梁と仰いで団結するようになりました。
これが武士のはじまりです。
武士といえども、もともとは中央では目のでなかった貴族だったわけですね。
これらの武士の中には、都に出てきて、宮中や院御所の警備にあたる者もいました。
貴族からみれば、武士はごく低い身分の人間であり、貴人のそばにつかえる、すなわちさぶらうことから「さぶらい(侍)」と呼んで軽んじたのです。
しかし、武士達は力をたくわえ、11世紀には大規模な武士団を形成します。
最初はあらくれの熊男のように思われていた武士たちも、このころになると和歌などの教養を身につけていました。
主人と従者との封建的なつながりも次第に確立していき、武士は武士の倫理を作っていきます。
10世紀前半に平将門が関東で反乱をおこし天皇を名乗るという事件があったときも、貴族や朝廷にはなんの力もなく、あざけっていた武士の力を借りるしかなかったように、次第に貴族は武士の力に圧倒されていくようになったのです。
鎌倉時代
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。
源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護、地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。
13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。
その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。
この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。
また在地社会では悪党?
惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。
また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。
北海道においては、13世紀頃からアイヌ文化が成立した。
南北朝時代
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。
大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。
荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。
また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。
室町時代
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。
足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。
京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。
各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。
こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。
足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。
義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。
幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。
村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。
西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。
文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化?
東山文化)が栄えた。
この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
戦国時代
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。
この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。
一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。
この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。
地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。
そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。
また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えた
安土桃山時代
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。
しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。
秀吉もまた中世的支配体系?
支配勢力の排除?
抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。
秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。
後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。
秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名?
武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。
江戸時代
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。
この後幕府は、17世紀中葉ま
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