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日本报告
2005/06/20
日本からの報告
ハンセン病問題解決のための取り組み
全国ハンセン病弁護団協議会
Ⅰ 国家賠償訴訟確定前の状況
1 日本のハンセン病強制隔離政策展開の略史
日本で最初にハンセン病に関する対策が講じられたのは、1907年の「癩予防ニ関スル件」という法律によるものである。
それ以前、日本では放浪するハンセン病患者もあり、これらの人々を積極的に救済していたのは、主に外国人の宗教家などであった。
何ら救済措置を取らない日本政府への海外からの批判も強くあった。
国はこうした事情を背景に、ハンセン病を文明国にあるまじき「国辱」であると捕らえていた。
1907年の法は、患者に対する強制隔離条項をもったものであった。
この隔離条項は放浪する患者を救済するという名のもとで、反面、警察的に取り締まるという意味を強く持っていた。
この法律に基づき、全国にハンセン病療養所が作られていった。
1916年には、療養所の所長に対して懲戒検束権が与えられた。
所長は裁判手続によらず自由に療養者に対する懲戒を実施できた。
各療養所には監禁室が設置され、極めて恣意的な処分がなされた。
療養所は社会と完全に隔絶された治外法権の収容所となっていったのである。
1931年には、「癩予防ニ関スル件」の改正として、「癩予防法」が制定された。
この年は日本が15年にも及ぶ戦争に足を踏み出した年であるが、「癩予防法」もまたファシズムを思想的背景にして、「民族浄化」の理念のもとにハンセン病を根絶するという目的を持っていた。
この法律により、放浪する患者のみではなく、すべてのハンセン病患者が収容されることとなった。
日本のハンセン病絶対隔離政策がこの法律のもとで確立されていった。
療養の名の下に強制的に収容された患者たちは、断種、堕胎だけではなく労働をも強制され、劣悪な生活環境と貧困を極める医療の中にとじこめられた。
療養所は収容所でありいわば「治療なき収容」が法と正義の名の下に繰り広げられた。
特に、収容された患者たちが恐れたのは、群馬県草津町にある栗生楽泉園の「重監房」と呼ばれた拘禁施設である。
設置は1939年。
厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には零下17度にまで気温下がった。
ここには、全国の療養所で「不良患者」とみなされた者が送られてきた。
監禁されると十分な寝具や食料も与えられず、記録によるだけでもここに収容された92人のうち14人が監禁中または出室当日に死亡したとされる。
この絶対隔離政策を背景に、全国的には「無らい県運動」が展開された。
全国で大勢の患者が駆り立てられた。
国民の身近で行なわれたこうした強制収容は、否が応でも多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの恐怖心を植え付けた。
第二次世界大戦後、ハンセン病療養所内の空気を一変させる重大な出来事が二つあった。
一つは、ハンセン病の特効薬、プロミンに代表されるスルフォン剤の登場である。
劇的に症状を改善させるこの薬は、ハンセン病を「治る病気」にした。
もう一つは民主主義である。
戦争が終わると、日本でも民主主義の運動が広がった。
それは療養所内にも及んだ。
様々な改善要求が患者の側から出され、多くの患者は未来に明るい展望を見ていた。
強制隔離を定めた「癩予防法」の見直しを求める声が沸き起こってきたのも当然のことだった。
1947年、基本的人権の擁護を基調とする日本国憲法が制定された。
本来であれば、このときに、人権を無視した不合理な絶対強制隔離政策は根本から見直されるべきだった。
しかし、国の政策に変化はなかった。
国は1950年ごろには、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、強力な強制収容を進めた。
これは「第二次無らい県運動」とも呼ぶべきものであった。
これにより、日本のハンセン病患者のほとんどが療養所に収容された。
多くの療養者の願いをよそに、国はむしろ強制隔離を強化する規定を持つ新「らい予防法」を旧「癩予防法」の改正案として国会に上程した。
1953年、多くの患者の命をかけた反対運動にもかかわらず、「癩予防法」はその政策の基調を維持したまま「らい予防法」に改正された。
「らい予防法」は、民主主義を渇望し、自主的に活動を始めた患者らに対する治安維持的な意味合いも持っていた。
患者らの闘争は、広く社会に知られることもなかった。
この新法の制定にあたっては、「近き将来本法の改正を期する」とする参議院厚生委員会の付帯決議がなされた。
しかし、実際に法が廃止されたのは、これから43年もの時を経た、1996年であった。
2 日本のハンセン病政策の特徴
日本のハンセン病強制隔離政策の本質は、患者の絶滅(根絶)であり、そのための収容(隔離)施設の建設とそこへの完全・終生収容であった。
つまり、患者の人権・人格を無視して、その存在そのものを根絶することを目的としていた。
その態様には以下の特徴があった。
1) 家庭内、地域内における分離を超えて、強制的に離島・僻地の療養所に収容して外部との交流を厳しく遮断した(強制収容、完全隔離)
2) 症状、家庭内療養手段の有無、病型、感染性の有無を問わず全員を隔離した(絶対隔離)
3) 退所を厳しく制限して、終生の隔離を行った(終生隔離)
4) 患者作業が強制され、子孫を絶つための優生手術が強制された(絶滅政策)
このため、ほとんどのハンセン病患者(すでに治癒している者も含めて)が、強制的に収容され、社会から隔絶され、しかもその期間は長期にわたった。
地域社会や親族から断絶され、この強制隔離政策に生み出されたハンセン病に対する偏見や差別のために、多くの者は、二度と故郷に戻れなかったし、親族に会うこともなかった。
療養所では、結婚の条件として断種や堕胎が行われていたために、収容された者のほとんどは、子どもを持つことができず、また断種を嫌ったものは結婚さえできないという状況に置かれた。
また、貧困な療養所運営を補うために、患者作業が強制され、このために、ハンセン病の後遺症を悪化させ、手指、手足に大きな障害を残す者が多数いた。
ハンセン病に対する偏見や差別は厳しく、強制隔離政策のもとではこれを緩和するための積極策も何ら取られなかったために、ハンセン病そのものは治癒しても、社会復帰することは極めて困難であった。
例外的に社会復帰するものがあっても、その社会復帰を支援するための施策はわずかな支援策(就業支援の貸付制度等)を有するのであった。
また、偏見や差別の矛先は患者の家族へも向けられ、家族からハンセン病患者を出したために一家が離散するという例も多数あった。
3 「らい予防法」の廃止
1996年3月31日、ハンセン病強制隔離法であった「らい予防法」は廃止された。
当時、すでに多くの入所者は、高齢に達していた。
法が廃止されたとしても、自活して生活することは極めて困難な状況であった。
故郷や親族と断絶されていたために、今さら頼るべき実家はなく、優生政策のために頼るべき子もなかった。
また、後遺症が重篤な者も多く、専門的な介護を必要としていた。
他方、比較的年齢が若く軽症の者の中にはすでに退所していた者もいたが、退所にあたっては何の支援もなく、根強く残る偏見・差別のために、社会内で自らの病歴を隠しつつ懸命に生活していた。
「らい予防法」廃止法は、従来の「らい予防法」を廃止するとともに、ハンセン病療養所での療養を希望する者は引き続き療養所で生活することを認めた。
また、同法廃止に伴い、新しく社会復帰を援助する社会復帰支援策が取られることとなった。
しかし、その支援の内容は乏しいもので、退所後の生活を支えるものではなかったし、支出後に事後的に領収証を示して請求するという、複雑な請求手続を要するものであった。
このため、この支援策をあてにして退所するものはわずかしかいなかった。
「らい予防法」廃止法は、以上のことを定めるほかには、大きな変革をもたらすものではなかった。
第一に、廃止法は強制隔離政策についての国の責任を不問に付した。
当時の厚生大臣は法廃止にあたって療養者らへ謝罪の言葉を述べたが、それは「法の廃止が遅れたことをおわびする」というものにすぎなかった。
なぜ、合理的根拠を持たないハンセン病強制隔離政策が実施され、そのために未曾有の人権侵害が生じたのかということには一言も言及しなかった。
第二に、強制隔離政策の責任が明らかにされなかったために、国は強制隔離の実施そのものについては、一切謝罪を行わなかった。
第三に、同様の理由から、強制隔離の被害者への賠償の措置も一切取られなかった。
第四に、長年の強制隔離政策のためにも行わなかったし、これについての賠償措置も取られなかった。
結局、多くの療養者はそのまま療養所にとどまるほかはなかったし、退所者は苦しい生活を自らの努力によって続けるしかなかった。
4 国家賠償請求訴訟の提起
このような状況のもとにあって、廃止法の路線に不満を持つ者らが提起したのが、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟であった。
1998年7月31日、熊本地方裁判所に最初の裁判が提起された。
この時の原告は13人だった。
差別や偏見を恐れて、公表するのは原告番号のみという「匿名訴訟方式」を取った。
13人の中で、提訴当時は、本名も出せる、顔もメディアによって撮影してかまわないという者はたった1人しかいなかった。
療養所にいる多くの者は、国を相手に裁判をするということで療養所を追い出されるのではないかと、当初は裁判に立ち上がることを躊躇した。
しかし、勇気ある人たちの決起に触れ、裁判の説明を聞き、その趣旨を理解していく中で、最初はゆっくりと、次第に加速度を増して、次々と原告に加わる者が現れた。
1999年3月26日には東京地裁で、同年9月22日には岡山地裁で、同様の裁判が提起された。
2001年5月11日の熊本判決の時にまでには、全国で779名の原告数となっていた。
この過程の中で、原告団は、この裁判が何を目的にするものであるかということを議論した。
その議論は、四つの項目を持つ全面解決要求に結実していった。
本来であれば、損害賠償請求訴訟は賠償金の請求であり、それに尽きる。
しかし、「我々がめざすものはその先にあるハンセン病問題の全面解決である」ということが、意識的に問題とされたのである。
全面解決要求は次のように定式化された。
第一 責任の明確化と謝罪
第二 名誉回復措置と損害賠償
第三 恒久対策
第四 真相究明と再発の防止
これらは、まさに国が廃止法路線の中で、歴史の中に埋もれさせてしまおうと目論んでいた事柄だった。
つまり、この裁判は単に「勝てばよい」というものではなく、裁判に勝つことを突破口にして、国の政策を抜本的に転換させることが目的とされたのである。
そのためにこの裁判は、当初から「運動」として自覚され、その「運動」はこれを支える多くの人たちの支援の輪を生み出していった。
この運動の力が、判決後の控訴断念に向けてのたたかいを生み出し、その後の国の多くの施策を勝ち取る源となったのである。
Ⅱ 確定後の状況
1 熊本地裁判決の内容
(1) 国の責任に関する判断
2001年5月11日の熊本地方裁判所の判決は、「新法(53年制定のらい予防法)の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきである」として、憲法13条(人格権)・22条(居住・移転の自由)に違反すると判断した。
その上で、政府(厚生大臣)の責任について、「遅くとも昭和35年以降においては、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われたというべきであるから、厚生省としては、その時点において、新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があった」とし、それを怠った政府の責任を認めた。
また、国会についても、「遅くとも昭和40年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった」国会議員の立法上の不作為は違法であると判断した。
(2) 被害に関する判断
判決は原告らが受けた被害を「人生被害」と位置づけ、以下のように述べて、憲法13条が保障する人格権そのものに対する侵害だと判断した。
「新法の隔離規定によってもたらされる人権の制限は、居住・移転の自由という枠内で的確に把握し得るものではない」
「ある者は、学業の中断を余儀なくされ、ある者は職を失い、あるいは思い描いた職業に就く機会を奪われ、ある者は、結婚し、家庭を築き、子供を産み育てる機会を失い、あるいは家族との触れ合いの中で人生を送ることを著しく制限される」
「いずれにしても、人として当然持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである」。
その上で判決は、原告らの損害額の算定については訴訟を遅延させず、真の権利救済を図るためにやむを得ず、すべての原告に共通する精神的損害だけを慰謝料として、「より被害の小さいケースを念頭に置いて控え目に」算定した。
そして、入所の期間に応じて、被告に対し、800万円から1400万円の慰謝料の支払いを命じた。
(3) 除斥期間の起算点に関する判断
被告は、この裁判で、被害から20年を経過しているとして、除斥期間の適用を主張した。
これに対し判決は「被害は、療養所への隔離や、新法(同前)及びこれに依拠する隔離政策により作出・助長・維持されたハンセン病に対する社会内差別・偏見の存在によって社会の中で平穏に生活する権利を侵害されたというものであり、新法廃止まで継続的・累積的に発生してきたものであって、違法行為終了時において、人生被害を全体として一体的に評価しなければ」ならず、「このような本件の違法行為と損害の特質からすれば」、除斥期間の起算点は、違法行為が終了した新法廃止時である、として、被告の主張を排斥した。
(4)判決の影響力
熊本判決が与えた影響は計り知れなかった。
何よりもまず、判決は原告らに深い感動を与えた。
ある原告は「青空が広がった」と言い、またある原告は「もう俯かなくてもいい」と言った。
この判決が持っていた「解放力」は、判決後の大量提訴を呼び起こした。
同時に、何としてもこの宝物の判決を守ろう、という声が彷彿と湧き上がった。
そして、広く社会に、らい予防法が引き起こした人権侵害の深刻さと国の重大な責任を知らしめた。
さらには言えば、それを放置していた社会全体の責任も浮き彫りにした。
また、政治に与えた衝撃も大きかった。
きわめて説得的に政府・国会の責任論が展開されていたからである。
国会の中に、自らの責任を認め、被害回復を図るべきだという声が与野党を問わず上がってきた。
こうした状況のもとで、異例の控訴断念が実現した。
2 判決確定と総理大臣談話・政府声明
(1)控訴断念
上記の通り、熊本地裁判決は原告ら被害者のほぼ全面勝訴と言っていい内容であり、裁判上展開された国の主張からすれば、控訴することが必然と思われた。
しかし、①国が、らい予防法により数十年にわたり被害者を抑圧した当事者であり、控訴して訴訟を引き延ばすことが人道上の問題を含むと評価されたこと、②国会議員の立法不作為も断罪されたところ、国会議員の中から与野党を問わず控訴に消極的な意見を表明する者が多数表れたこと、③国民世論も控訴断念を支持したこと等から、2001年5月23日、小泉首相は「極めて異例の判断」として、控訴しないことを表明した。
(2)政府声明
控訴断念は、無条件になされたのではなく、同時に発表された政府声明では、熊本地裁判決において国が承服できない法律上の問題点について指摘するという留保が付いた(法律上の拘束力はない)。
その内容は以下のようなものである。
ⅰ 国会議員が個別の国民の権利に関する法的責任を負う場合について、最高裁判例は、故意に憲法に違反し国民の権利を侵害する場合に限っているところ、本判決は、故意がない国会議員の不作為に対して法的責任を広く認めている点について、司法がそのチェック機能を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、三権分立の趣旨に反する。
ⅱ 民法の規定では、20年以上前の権利は消滅すると定められている(除斥期間)が、本判決では、結果的に40年の間にわたる損害賠償を認めるものとなっている。
しかし、これらはいずれも前提とする事実引用が極めて不正確であり、また熊本判決について曲解するものである。
歴史的な場面における政府声明としては稚拙という他はない。
ⅰについて
そもそも最高裁判例は、国会議員が責任を負う立法行為について、「立法内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合」に限られる、としているのであり、「故意に違反すること」は要件とされていない。
そして、熊本判決は、人権制限の重大性等に鑑み、「容易に想定し難い例外的な場合」にあたる、と指摘したもので、最高裁判例と整合している。
ⅱについて
除斥期間に関する民法の規定は、不法行為の時から20年を経過した場合は権利が消滅する、と規定しており、この「不法行為の時」とは不法行為の終了時を指すとするのが定説である。
したがって、民法は、不法行為の終了時から20年間権利行使を怠ると権利が消滅する、と規定するだけであり、その要件を満たす限りは、過去の権利消滅について何ら言及していない。
すなわち、「20年以上前の権利は消滅する」との解釈は誤りである。
熊本判決は、不法行為の終了時を1996年のらい予防法廃止時と認定したことから、除斥期間の適用を受けないことは至極当然である。
(3)総理大臣談話等
また、控訴断念に際し、総理大臣談話として、控訴断念を決定した総理大臣の思いと今後の方針が発表された。
今後の方針として示されたのは、以下の三項目であった。
ⅰ 判決認容額を基準として、訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者全員を対象とした新たな補償を立法措置により講じる。
ⅱ 名誉回復及び福祉増進のために可能な限りの措置を講ずる。
具体的には、患者・元患者から要望のある退所者給与金(年金)の創設、ハンセン病資料館の充実、名誉回復のための啓発事業などの施策の実現。
ⅲ 患者・元患者の抱えている様々な問題について話し合い、問題の解決を図るための患者・元患者と厚生労働省との間の協議の場を設ける。
この総理大臣談話を受け、2001年6月22日、議員立法にて成立したハンセン病補償法が公布され、即日施行された。
同法は、上記ⅰの補償金支給のみならず、上記ⅱの様々な原状回復(福祉)的措置の根拠法としての位置付けも担った。
そして、上記ⅱの課題を具体的に進めるために厚生労働省と患者・元患者とが交渉協議する機関として、厚生労働副大臣を座長とする「ハンセン病問題対策協議会」が定期的に開催されることとなった。
なお、同年6月7日及び8日には、衆参両院において、いわゆる謝罪決議が満場一致で可決している。
(4)小括
この控訴断念と一連の政策決定の意義を整理すると、以下のようなことになろう。
① 法的責任の明確化・確立
国家賠償責任を認定した熊本判決の結論を受け容れたことにより、国の法的責任は何らの疑義なく確定した。
国はこの後、裁判上の合意等について、「謝罪する」という文言を入れることに全く抵抗しなくなった。
② 法的責任を踏まえた各種政策実施の確約
そして、この法的責任を踏まえた各種の施策(それは単なる社会福祉的施策ではなく、被害者に対する原状回復的色合いが強いものとなる)を実施することを、政府最高責任者が確約したことに意味がある。
特に、首相談話に明示された退所者給与金、資料館充実、名誉回復措置については、後のハンセン病問題対策協議会の議論において、(内容は協議の上としても)実施することは既定方針となっていた。
③ 施策実施プロセスのルール化
さらに、各種施策の実現については、副大臣を座長とする厚生労働省と患者側が協議し、その合意に基づき、政府が法的な根拠付けを主導しつつ実行する、というプロセスがルール化した。
これにより、ハンセン病問題に対する要望事項は単なる陳情よりも事実上重いものと取り扱われ、また、患者側の了解なく一方的には実行しない、ということになった。
④ 名誉回復
また、控訴断念と一連の政府・国会の対応はハンセン病政策の転換を明確に打ち出したものであり、それら自体が患者・元患者の名誉回復に大きな意味があったと評価できる。
3 補償ルール・ハンセン病補償法と訴訟上の和解の2本立て
(1)司法救済ルールの確立
熊本地裁の確定と補償法制定の方針決定により、問題となったのは、既に提訴しながら熊本地裁判決の対象とならなかった被害者の解決である。
国としては、訴訟を取り下げて補償法による補償金支給による解決を誘因しようとした節も見られるが、提訴した原告にとっては、補償金は国の法的責任が不明確であり、裁判上の国家賠償金として受領したい、という思いを有するものが多く、取り下げる意向を示すものは皆無であった。
また国も、訴訟を早期に終了させることが基本方針であったことから、三地裁統一の和解協議が時に裁判所を介し、時に直接交渉で実施された結果、2001年7月23日、基本合意書が締結され、以後これに従った和解が実施されることになった。
この基本合意書においては、国が法的責任を認め謝罪すること、これを踏まえた賠償金として和解金を支払うこと、提訴時期に応じた弁護士費用が加算されること、等が定められた。
また、補償金と和解金の相互調整もそれぞれ定められ、一方を受領すると、他方の権利が同額分消滅する旨定められた。
なお、賠償額については、「ハンセン病補償法」の基準に従うことになったことにより、判決で格差が生じていた沖縄の入所者についての差別はなくなり、また入所時期についても、1960年以前の入所者も同様の基準で和解できることとなった。
(2)補償法と司法救済との差異
補償法による補償金支給と、司法上の和解金の相違は、以下のようなものである。
① 法的責任の有無
司法上の和解金は、和解解決としては異例であるが、国家賠償金としての性格が明示された。
これに対し補償法による補償金は、この点が必ずしも明示されていない。
② 琉球政府時代の在沖縄療養所、私立療養所の被害
熊本判決においては、琉球政府時代の在沖縄療養所の被害については、根拠法の違い等から、国内の療養所における被害との同質性立証が不十分であるとして、この期間を被害額に算定しなかった。
しかしながら、補償法においては、これも金額算定の対象とされた。
また、熊本判決では対象原告のなかった私立療養所入所者についても補償対象とされた。
③ 遺族・入所歴なき被害者
なお、遺族及び入所歴なき被害者については、補償金支給の対象とはされず、司法救済においても、この和解交渉とその後の交渉において、国は和解を拒否した。
そのため、これらの原告については、司法審理が継続することとなった。
最終的には司法救済の道が開かれたものの、補償法の改正はなされなかったことから、これらの被害者については、司法救済のみが受けられるという形になっている。
4 ハンセン病問題対策協議会の設置と協議内容
(1)位置付け
ハンセン病問題対策協議会(以後「協議会」という)は、上記の通り、首相談話を受け、厚生労働副大臣を座長とし、厚生労働省と患者・元患者との協議交渉機関である。
ここにおいては、①患者・元患者側は、原告団・全療協・弁護団が参加し、統一交渉団を組織する、②厚生労働省は担当部局が出席する、③両者が事前に議題設定された事項について要求と
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