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5役者
5.1伝統歌舞伎保存会
6舞台
6.1舞台の各部分
6.2舞台機構
6.2.1廻り舞台
6.2.2迫り
6.2.3幕
7歌舞伎音楽
8興行
8.1観劇
8.2その他の歌舞伎
8.2.1地芝居
9歌舞伎に由来する語
10関連図書
11出典・注釈
12関連項目
13外部リンク
語源[編集]
歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている[3]。
戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った[4]。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年-1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
「かぶき踊り」は主に女性が踊っていた事から、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」、「歌舞妃」、「歌舞妓」などの表記が用いられ[5]たが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった[5]。
現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代使われない事はなかった[5]が、一般化したのは近代になってからである[5]。
なお江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称[6]であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた[6]。
歴史[編集]
創成期[編集]
お国(今日でいう出雲阿国)
歌舞伎の元祖は、「お国」という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。
「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。
お国達の一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている[7]。
『当代記』によれば、お国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった[8]。
ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋の事[9]「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女の事である[9]。
後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともとお国が演じていたものも上述したようなエロティックなシチュエーションを含んだものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない[10]。
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、クニが「ややこ跳」というものを踊っていたという記録があり[11]、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている[12]。
しかし内容面では両者は質的に異なった[13]ものであり、「ややこ踊」がかわいらしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し[14]、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びというエロティックな場面を含んだものである。
なお現在ではお国の事を「出雲阿国」(いずものおくに)と呼ぶが、彼女と同時代の文献にはこの名称はなく、また出雲の出身であるかどうかにも確証がないため、軽々に用いるべき言葉ではない[13]。
この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった[15]。
「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったらしい。
そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった[16][17]。
その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていた事もあり、わずか10年あまりで全国に広まった[18]。
今日でも歌舞伎の重要要素の一つである三味線が舞台で用いられるようになったもの、遊女歌舞伎においてである[5]。
当時最新の楽器である三味線をスターが弾き、五六十人のの遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという[19]。
他にも少年の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行なわれていたが、少年達の多くがもともと男色をなりわいとしていた[20]事からも分かるように、好色性を持ったものであった[21]。
男色の特殊性ゆえか、全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京、大阪、江戸の三都を中心とした都市部に限られている[22]。
しかしこうした遊女や若衆をめぐって武士同士の喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった為[23]、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は幕府により禁止される[18]。
遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来は寛永6年(1629年)であるとされていた[24]が、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令で無くなるはずもないので、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている[18]。
それに対し若衆歌舞伎は十七世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまう[25]。
なお、古い解説書には若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止された後に作られたものだと書かれているものがある[26]がこれは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)にはすでに若衆歌舞伎の記録がある[27]。
またこうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止された後「物真似狂言づくし」にする事を条件に再興がみとめられて野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされる事があるが、「物真似狂言づくし」を再興の条件とした件は現在では否定されているばかりでなく[28]、野郎歌舞伎という時代を認めない積極的な説も存在する[29]。
元禄近辺[編集]
次の劃期が元禄の近辺にあたるとするのが定説で、「このころには「演劇」といってはばかりのないものになっていた」(元禄歌舞伎)[30]。
そこにいたるまでの道筋は資料の不足から明らかではないものの、明暦・万治の頃が準備期で、寛文・延宝がゆるやかな変化の時代とするのがひとまずの目安であろう[18]。
江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である[31]>
。
この時代の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の市川團十郎(初代)と[32]、「やつし事」(高貴な人が一時的に零落して苦難を経験する場面[33])を得意とし[34]て評判を得た京の坂田藤十郎(初代)がいる。
藤十郎の演技は「後の和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ」[34]、「後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた」[35]。
芳沢あやめ(初代)も京随一[36]の若女形として評判を博した。
なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述[37]を散見するが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない[38]。
当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない[39]。
また荒事の成立過程はよくわかっておらず[34]、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」、「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない[40]。
狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎の為に歌舞伎狂言を書いた。
後に近松は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、近松の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。
なお今日では近松は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。
作品面では1680年頃には基本となる7つの役柄が全て出そろった[41]。
すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である[41]。
また作品づくりにおいて江戸幕府の禁令ゆえの制限ができた。
正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ[42]、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色する事が禁じられた[42]のである。
これ以降歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描く事を強いられる事となる。
江戸では芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年)に江島生島事件が原因で山村座が取り潰される。
以降江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。
享保-寛政[編集]
歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである[36]。
享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる[36][43]。
これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった[36]。
また享保年間には花道が演技する場所として使われるようになり[36][44]、「せり上げ」が使われ始め[36]、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた[36]。
宝暦年間の大阪では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする[36][45]。
等、「舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われ」[36]、これらの工夫は江戸でも取り入れられた[36]。
こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を獲得し、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。
作品面では趣向取り・狂言取りの手法が18世紀から本格化した[46]。
これらは17世紀にもすでに行われていたが、17世紀時点では特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になったのである[46]。
これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになった事による[46]。
またこの頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり義太夫狂言が誕生した[46]。
すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった[46]。
延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。
これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる菅原伝授手習鑑、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ1746年、47年、48年である。
またそれから少しさかのぼる1731年には瀬川菊之丞(初代)が能の道成寺にヒントを得た『無間の鐘新道成寺』で成功をおさめ[46]、これにより「舞踊の新時代の幕開きを告げた」[46][47]。
その後道成寺をモチーフにした舞踊がいくつも作られ、1753年には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている[46]。
なお当時の江戸は他のどの土地にも増して舞踊が好まれており[46]、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった[46]。
1759年、並木正三が『大坂神事揃』(おおさかまつりぞろえ)で「愛想尽かし」を確立[48]。
これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。
その後男が女を殺す場面につながる事が多い[48]。
文化-幕末[編集]
これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し[49]、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。
南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件等を扱う狂言[50])を確立して評判を得た[50]。
天保3年(1832)には七代目の市川團十郎(当時は五代目市川海老蔵)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」を贔屓客に配り、天保11年(1840)に松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。
天保の改革の影響は大きく、七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになった(天保13年)り、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外[51]に移転させられた[52]。
移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち)と改名された。
しかし江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。
幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。
[53]。
江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別された[54]ものの、各地への通行には逆に便宜を与えられた。
武家では幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止したものの、実際には連日にぎわう芝居小屋に多くの武家が足を運んだ。
明治以降[編集]
明治になると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。
これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。
しかし1872年になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が新政府から出される。
新政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ[42]、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じる事、狂言綺語(作り話)を廃止する事などを要求した[42]のである。
江戸時代にはむしろ現実そのままに書く事を禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり[42]、新政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった[42]。
明治19年(1886)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国である事を顕示する目的で」[42]演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリスト等[42]が参加した。
翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、「役者達の社会的地位の向上を助けるきっかけとなった」[42]。
時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物[55]と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目の市川團十郎である。
芝居の価値観が新政府のそれと一致していた彼は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、例えば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した[42]。
それに対して彼が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」で[42]、セリフと動きを極力減らし[42]、「目と顔」による表現[42]で演じ始めた。
こうした團十郎の芸は高く評価され[42]ながらも「活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ」[42]で、世間の人は「その芝居らしくない活歴には背を向けた」[42]が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった[42]。
しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。
それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった[56]。
こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され[42]、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった[42]事が活歴の歴史的意義である[42]。
劇場の面では明治22年(1889)には演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。
歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。
その後経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収。
歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに「歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった」[42]。
他にも歌舞伎の中央集権化[42]、改良演劇の確立[42]、歌舞伎演出の様式美化の促進[42]といった影響があった事が指摘されている。
一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(のちの明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。
また大正の頃の市村座では六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。
しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。
江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、昭和7年(1932年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰える。
19世紀末[57]になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場する。
これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用[57]、「劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演」[57]、「新しい観客の掘り起こし」[57]によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」[57]である。
松井松葉の『悪源太』(明治38/1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43/1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれ、これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎により一層の厚みを与えることにつながった。
他にも岡本綺堂の『修善寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。
その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界の封建制的な部分に反発して昭和6年(1931年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された[58]。
第二次大戦後[編集]
太平洋戦争(大東亜戦争)の激化に伴い、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行なわれ、歌舞伎の興行も困難になり、戦災による物的・人的な被害も多かった。
終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。
しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年(1947年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
1950年代、人々の生活に余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。
プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画やテレビ放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。
そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
そのような社会の変動の中、昭和37年(1962年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。
役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。
国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
戦後の全盛期を迎えた1960年代-1970年代には次々と新しい動きが起こる。
特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。
昭和40年(1965年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され(保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。
その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。
さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。
猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。
また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興[59]などが目を引くようになった。
また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。
その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。
このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。
歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[60]の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。
1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。
同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組であった。
演目[編集]
明治28年(1895年)11月、東京歌舞伎座上演の『暫』(中央で見得を切るのは九代目市川團十郎の鎌倉権五郎)。
鹿島清兵衛撮影
分類[編集]
現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊(所作事)に分けられる[61]。
歌舞伎狂言は、さらにその内容により時代物と世話物に大別される。
時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品[62]や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう[63]。
一方、世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品を
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