三岛由纪夫の作品における日本の伝统的な美学観Word格式.docx
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美を対象として、分析して、研究する専門もある。
哲学の分野ではそれは美学と呼ばれる。
それは大変難しい学問であり、素人の私はもちろん、長年に専攻している専門家の先生たちも二言三言で美のことをはっきり説明してくださらないではないかと思う。
それを見ると喜び、興奮を覚え、いい気持ちになれる物事は全て美である、というのは私の個人的な認識である。
人間の外見や、行為、自然風景、芸術品など全てにこの美の定義は適用されるだろう。
そして、生まれ育った環境、地元の風習、言語もそこの人々の美に対する認識が深く影響すると思う。
2、日本の自然
極東にあって、海に囲まれている島国の日本の事情は中国と同じところもあれば、違うところもたくさんある。
弓形のように細長い日本列島は太平洋と日本海両方の懐に抱かれていて、南から北まで気候が大変違う。
この点は中国人も理解できる。
大和民族の発祥地という大和地方は列島の中央部分である。
そこの気候は温帯気候で、地震や台風など風水害もあるけれども、全国的にいえばそんなに多くない。
豊富な水資源を持ち、河川が多い。
降水量に恵まれて、全体の三分の一が森に覆われて、どこも緑いっぱいである。
霧が発生すると、湿潤の空気の中で甘さも感じられる。
そこに身を置いたらまるで夢幻の国に入ってしまうような気がする。
こういう幻の国で、日本民族そして日本文化が生まれた。
二、 文武両道文化
1、平安貴族と国風時代
ここで論じたい貴族というのは、大体平安時代の貴族のことをさす。
平安時代の貴族文化といえば、794年10月22日に桓武天皇が首都を長岡京から平安京(後の京都)に移したのが平安時代の始まりとされる。
京都は山に包囲されている盆地である。
前述のように、日本は四季鮮明で、季節の変化は緩やかで、温暖な国である。
京都もこのようである。
それから、時間の経つにつれて、日本と外交関係があった新羅国、渤海国が相次ぎ滅びた。
寛平6年(894年)から、長年続けてきた遣唐使制度も廃止された。
ここで、日本は実はもう鎖国状態に入ってしまった、といっても言い過ぎではないと思う。
山紫水明の平安京に住んでいた貴族たちの国際上の活動範囲は狭くなり、自分の身の回りの物事に気を配り始めた。
唐からのものがすべて最高であり、建築、文学、衣服、なんでも唐の様式を真似なければならないそういう学習ブームがだんだん冷めていって、母国の文化、風土、民俗を改めて認識するべきという意識が甦った。
奈良時代から始まった文化の国風化は中国からの唐風文化の影響から解放され、もっと日本の物事に注目して、もっと日本に関することを書くことであった。
遣唐使の廃止は国風化を加速させた。
平安中期には、仮名の発明のおかげで、日本語を書くことは易しくなってきた。
平安時代の貴族たちの、仮名で書いた和歌、日記、随筆、物語の作品、そして独自の建築の様式は、「国風時代」に入ったことを宣言したと言える。
2、国風文化の特徴、そして代表的作品
国風文化は中国からの影響を取り除いて、日本独自の文化を発展することである。
以下、国風時代で触れておきたいのは、仮名文字、女流作家、『源氏物語』、それに建築様式などである。
仮名
これまで使っていた万葉仮名は手間がかかり、実際の使用中いろいろな不便がある。
国風時期になって、漢字の一部を取って作ってきたカタカナと、漢字の草書体を基にして書いたひらがなは画期的な表音文字として歴史の舞台に上がった。
その柔らかい感じと易しさですぐ広く使われるようになった。
仮名文字、特に平仮名の独特な繊細感、柔軟感はまるで優しい女性のように、女たちに好まれたという。
当時の人々はまだ男は漢文、女は仮名文というのが一般であった。
平仮名でものを書く人は大体女性だから、平仮名を「女手」と言った。
女流作家
平安時代の藤原氏は政権を握り、皇后は大体藤原氏摂関家の娘から選ばれた。
天皇の歓心を得るために彼女たちは幼いことから厳しい教育を受けて、皆高い教養を持ち、立派な女性である。
それだけではなくて、宮中の女官も貴族家の娘が出仕した。
、家柄が良くて、高い教養を持っている紫式部、清少納言をはじめ宮中の女性たちは平安時代の女性インテリと言える。
彼女たちは仮名文字を使って、女性特有の感覚で身の回りのこと、当時の社会風貌を日記や、和歌、物語に著した。
『源氏物語』
『源氏物語』は平安中期に成立した文学作品である。
世界史上初の長編小説という『源氏物語』は、この時期の傑作である。
この作品は光源氏とその息子である薫の、親子二代、約数十年間にわたる恋の物語である。
蜘蛛の巣のように広く展開している複雑な人間関係のなかで、数え切れない顔、身分、性格の違う人物が登場した。
人物の描写は顔、服装はもちろん、内面の心理活動までも一つ一つ巧みな手法で詳しく描いた。
四季によって、人々はその季節にふさわしい衣装を着ている、※「もののあはれ」の精神はこの作品の趣旨である。
母である桐壺更衣が死に、光源氏を可哀そうと思っていた人々が作った和歌にも、平安京を離れて、明石に下ったとき、振り返って京を眺める光源氏の気持ちにも、全部この「もののあわれ」の精神を読み取ることができる。
そして、年中行事の様子や建築のこともたくさん書いてある。
平安時代の寝殿造りという建築様式も作品の中に姿を見せる。
庭には池があって、池の真ん中に中ノ島という人工小島が造られている。
日本人の自然と一体化になる素朴な審美情趣がみえる。
つまり、国風時代の特徴というのは、繊細、感性的、柔らかい、自然の中に身を置くことである。
※もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)とは、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。
折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。
日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情。
「ウィキ百科辞書より」
二、武家文化
神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
敬神党の乱とも言う。
1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」により廃刀令に反対して起こされた反乱。
この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので、神風連の乱と呼ばれている。
名誉回復、すなわち贈位後(大正13年2月11日、太田黒・加屋に、正五位を贈られた後)は、「神風連の変」と呼称される。
武家文化といえば、はじめにこの「神風連の乱」について、どうしても触れたい。
第二巻の『奔馬』はこの事件と深く繋がっているだけではなくて、晩年の三島由紀夫自身もこの事件に興味を持ちでたくさんの時間を掛けて、これを研究したということである。
敬神党の人は日本古来の神道思想や中国から伝来してきた儒学を基にして、天皇を尊敬し、武士道精神を貫徹する者だといわれる。
反乱中、124名敬神党の人は殺されて、割腹自刃した。
『奔馬』の主人公である飯沼勲は「神風連」の事跡に憧れて、彼らに追い付きたい、日本を汚した、財界の黒幕を暗殺して、天下に大義を伸ばしたい。
第二巻の末に、飯沼勲は海辺で割腹を遂げた。
ちなみに、作者の三島由紀夫も45歳で自衛隊に乱入し将官らの変乱を呼びかけて割腹自刃した。
政治に関するものはここで言わない、ただ「神風連の乱」を呼び水として本題に入りたい。
平安時代以降、文人貴族に代わって日本を支配した侍たちの精神世界はどのようなものか。
1、武士道
武士道(ぶしどう)とは、封建社会の日本における武士階級の倫理及び価値基準の根本をなす体系化された思想一般をさす。
神風連の人でも、飯沼勲でも、三島由紀夫でも、武士道を人生の信条として奉っている。
武士道は一体何か。
それをよく耳にしたことがあるけれど、日本人にとっても説明するのは難しい。
「武士道というは死ぬ事なりと見つけたり」という名言で知られる『葉隠』は武士道を研究している人々に愛読されている。
武士道は死ぬ事なりと見つけたり、迷わずに自刃することとされている。
江戸幕府は百年間の乱世を終えて、戦乱のない時代を迎えてきた。
江戸時代に「武士道」思想が体系化された。
幕府の解釈によって、「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」は武士として守るべき基本的なものである。
武士道はただ死ぬ事なりと見つけたりというのは決して『葉隠』の中心ではない。
作者の山本朝常自分も「私も人である、生きることが好きだ。
」という言葉を残した。
だから自刃、死を賛美することは武士道のすべてと理解するのは不十分だ。
武士道は神道と仏教、そして儒教から生まれる日本武士階級のルール、人生の教義である。
仁義礼智信という五常の上にもっと大切なのは「忠孝」とされ、親から頂いた大切な命を主君に奉仕するのは侍の天職である。
武士の道の中心は「忠」に違いない。
武士たちは忠誠の心で生きていて、戦って、しかも迷わずに死ぬ。
「人間として、誰も生きることが好きだが、道標がない人生は意味がない」、と『葉隠』にある。
というのは(忠心を持ってすれば、)「忠」のためならば、直ぐ死んでも何も怖くない。
主君に忠を尽くすは彼らの人生の意義なのである。
三、『春の雪』と『奔馬』に表現される日本古典の美
1、『春の雪』と古典の美意識
『春の雪』は三島由紀夫の遺作『豊饒の海』の首巻で三島の美学観、価値観、仏教の転生輪廻、神道の一霊四魂思想を含める大作である。
古典主義、浪漫主義、日本伝統美、三位一体の作品である。
生まれたときから貴族であることが約束されている侯爵の息子・松枝清顕。
何不自由ない生活を送っていたが、流れるままの生活に何かわだかまりを抱えていた。
そんな彼にとって、幼馴染の伯爵の娘・綾倉聡子は特別な存在であった。
聡子もいつからか清顕を恋い慕うようになっていた。
が、ふとしたことがきっかけで清顕は突き放したような態度をとるようになる。
聡子は失望して洞院宮治典王と婚約し、皮肉にもその時、清顕はやっと自分の本心に気づいたのであった。
そして彼は聡子と禁断の恋をしてしまい、聡子の妊娠によって二人の仲はついに両家に知れ渡った。
聡子は大阪の松枝侯爵の知り合いの医師の元で中絶をし、そのまま奈良の門跡のもとで出家する。
一方、清顕も肺炎のため二十歳の若さで死に、二人は二度と会えなかった。
これは『春の雪』の粗筋である。
この作品の中に、古典的な美の意識を表したところを二つを挙げて、少し分析したい。
1-1、夢の日記と「もののあはれ」
『春の雪』の主人公である松枝清顕は武家の子孫だけど、彼の父親は公家の風雅に憧れているので、清顕は幼い頃から、羽林28家の一つの綾倉伯爵家で育てられた。
光源氏のような綺麗な顔をしている清顕は綾倉伯爵の公家風に影響されて、憂鬱な性格を持っている。
彼はいつも夢の中で見たことを日記に付けている。
これは夢の日記である。
「昨夜は昨夜で、彼は夢の中で、自分の白木の柩を見た。
それが窓の広い、何もない部屋の只中に据えてある。
窓の外は紫紺の暁闇、小鳥の囀りがその闇一杯に立ち込めている。
一人の若い女が、黒い長い髪を垂らして、うつぶせの姿勢で柩にすがり付いて、細かいなよやかな肩できょき歔欷している。
女のかおを見たいと思うけれど、白いうれ憂わしげな富士額の辺りがわずかに見えるだけだ。
そしてその白木の柩を、豹の斑紋の飛んだ広い毛皮の、沢山の真珠の縁飾りのあるのが、半ば覆うている。
夜明けの最初の不透明な光沢が、その真珠の一列にこもっている。
部屋には香りの代わりに、熟れ切った果実のような西洋の香水の匂いが漂っている。
」(『春の雪』第二章より)
「するうちに聡子は夢と現の境に、突然、ありありと姿を現ずるやうになつた。
もはや清顕の夢は、夢日記に誌すやうな客観的な物語を編むことがなくなつた。
ただ願望と絶望が交互に来て、夢と現実が互いに打消し合ひ、あたかも海の打際のやうに定めない線を描いてゐたが、その滑らかな砂上を退く水の水鏡に、突然、聡子の顔が映るのであつた。
これほど美しくこれほど悲しげな面影はなかつた。
夕星のやうにけだかく煌めく顔は、清顕が唇を寄せるとた……」(『春の雪』第五十一章より)
前述のように、清顕は二十歳未満の美少年、幼いころから貴族の一員になった。
豊かな生活を過ごしていた彼の精神世界は空虚である。
自分が幼馴染の聡子のことが好きかどうかまだ迷っている。
自分の未来はどうなるかなということを心配している。
彼の夢の中に、柩、消える、そういう「死」を暗示する言葉が相次いで現れた。
そして、香水、西洋、真珠のような高級な飾り物も沢山ある。
これらを通して、彼は優雅のうちに、若いうちに死にたいということが暗示される。
清顕の夢の日記から、私たちは彼の繊細な感触、雅に対しての追求、不安な気持ちを読み取れる。
これらの複雑な気持ちは彼は誰にも言えない、ただ日記に付けることしかできない。
松枝清顕の描写は「もののあはれ」に通じる。
これをまとめて読めば、松枝清顕はまるで光源氏の生まれ変わりのようである。
1-2、松枝家の建築様式と寝殿造
平安時代の貴族の住宅の代表的な様式は「寝殿造」という建物である。
寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、その東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けた。
寝殿造からの庭の眺めは生得の山水や国々の名所を縮景したもので構成される。
池には大きさによっていくつかの中島が設けられ、北岸にちかい中央前面からみて斜めに朱塗りの高欄をもつ反り橋、次の中島や対岸にむけて平橋がかけられる。
中門の廊の先端に池に乗り出してつくられる庭園建築である釣殿(つりどの)が設けられ、舟遊の際の乗降場にあてられたり、納涼や月見、雪見の場所として用いられる。
中島の裏側には楽屋が造られ、舟遊びに興をそえることもあった。
池への給水は京都の地形から敷地の北東部からの流れが導かれることが多く、水路は寝殿と東対屋の間をとおし南に流れて池に注ぐ。
これは当時の陰陽五行思想によって順流とされるもので、遣水(やりみず)とよばれ、浅いせせらぎとなるよう工夫が凝らされる。
これを建物近くに流して滝・遣水とし、寝殿と対屋の間などのつぼ庭には嵯峨野や紫野などの野の趣を移し、野筋といわれるゆるやかな起伏を作り、野草を植えて虫を放ち前栽とする。
松枝家の建築様式は全くこの「寝殿造」とそのままというわけではない。
けれども、三島由紀夫は「寝殿造」を真似て、松枝家の屋敷を書いたようである。
「松枝侯爵邸は、渋谷の郊外の広大な地所を占めていた。
14万坪の地所に、多くの棟が甍を競っていた。
母屋は日本建築だったが、庭の一角にはイギリス人の設計師の立てた壮麗な洋館があり、靴のまま上がれる邸は、大山元帥邸を初めとして、四つしかないと言われていたその一つが、松枝邸なのであった。
庭の中心は、紅葉山を背景にした広々した池であった。
その池ではボートあそびもでき、中ノ島もあり、河骨も花咲き、じゅんさい蓴菜もとれた。
母屋の大広間もこの池に面し、洋館の饗宴の間もこの池に臨んでいた。
紅葉山の頂きに滝口があり、滝は幾重にも落ちて山腹をめぐり、石橋の下を潜り、佐渡の赤石のかげの滝壺に落ちて、池水に加わり、季節には美しい花々をつける菖蒲の根を浸した。
池では鯉も釣れ、寒鮒も釣れた。
侯爵は年に二度、小学生たちの遠足がここへくるのを許していた。
」(『春の雪』より)
大きな屋敷には和館と洋館が全部揃っている。
邸内には庭があって、庭には池があり、中に中ノ島という人工小島が造られた。
上に架け橋も造られている。
母屋から向こうの池の全体もきちんと見える。
船遊びも饗宴も何でもできる広い屋敷である。
建物には洋館の母屋あったりするが、庭園は「寝殿造」にソックリである。
)
2、 『奔馬』と武士道
2-1、 飯沼勲の「昭和維新」
聡子と結ばれることなく清顕が死んでから十九年。
彼の親友であった本多繁邦は、大阪控訴院の判事になっていた。
繁邦は、清顕と同じく三つの黒子を持つ少年、飯沼勲と出会う。
繁邦は彼から、愛読していたという『神風連史話』を渡される。
勲はその精神を以て有志達と「純粋な結社」を結成、決死の何事かを成し遂げようとしていた。
清顕の夢日記に符合する出来事が起き、繁邦は彼が清顕の生まれ変わりであると確信を深めるが、勲は財政界の黒幕を殺害し、二十歳で鮮烈な自殺を遂げる。
前述したように、第二巻『奔馬』は日本の武士道文化と深く関係がある。
「神風連の乱」は明治政府の欧化政策に反対する武士たちの戦いである。
その翌年、武士階級の最後の戦いとされる「西南戦争」が勃発した。
第二巻の主人公である飯沼勲は、若き武士のような有志たちと一緒に、純粋な武士道精神をもって結社した。
彼らは「昭和維新」という変乱を図っている。
「明治維新の大目標は、政治及び兵馬の大権を、天皇に奉還せしむるにありき。
わが昭和維新の大目標は、金融産業の大権を、天皇に直属にせしめ、西欧的唯物的なる資本主義及び共産主義を攘伐して、民を塗炭の苦しみより救ひ、 柄乎たる天日の下、皇道恢弘の御親政を冀求し奉るにあり。
」これは、彼らの行動要綱である。
彼らは資本主義も共産主義も、どちらもいらない。
日本的な精神で、独自な国家体制を創りたいようである。
こういう思想の指導の下に、飯沼勲は財界の要人を殺した。
彼らは自分がやったことを武士としてやるべきことであると思っている。
「神風連の乱」でも、「昭和維新」でも、天皇に反対する変乱ではない、ただ政府、財界に反対するのであって、悪いのは天皇ではない。
これは武士道の「忠」である。
「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」、天皇に忠、両親に孝、日本を愛して、日本国民のことを心配して、天皇のために、日本のために、民衆のために、思い切って、この美しい日本を汚した人たちを殺しても何も怖くないというのである。
2-2、飯沼勲の割腹
切腹は、みずからの腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。
主に武士が行った、日本独特の習俗。
近世からは、自死のほかに、処刑の方法としても採用された。
腹切り(はらきり)、割腹(かっぷく)、屠腹(とふく)ともいう。
切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(保延5年(1139)-嘉応2年(1177))が最初に切腹をした者であるとされている。
切腹が習俗として定着した理由は、新渡戸稲造が『武士道』(Bushido:
TheSoulofJapan1900年刊)の中で指摘した、「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切だとされたとの説が、広く唱えられている。
切腹の動機としては、主君に殉ずる追腹(おいばら)、職務上の責任や義理を通すための詰腹(つめばら)、無念のあまり行う無念腹、また、敗軍の将が敵方の捕虜となる恥辱を避けるためや、籠城軍の将が城兵や家族の助命と引き換えに行うなどがある。
また、合戦における下知なき行動(抜駆け)を行った者に対し、刑罰的な意味を込めて切腹を命じる場合もあった。
中でも徳川家康は抜駆け行為に対し、一族郎党全員の切腹という、特に厳しい軍律を設けていた。
飯沼勲は自分のことを武士であると思っているので、彼の死に方も武士らしくあるべきである。
「勲は湿った土の上に正坐して、学生服の上着を脱いだ。
内隠しから白鞘の小刀を取り出した。
それが確かに在ったということに、全身がずり落ちるやうな安堵を感じた。
」(『奔馬』より)
「勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指先で位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。
正に刀を腹へ突っ込んてた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。
以上は財界要人を殺害してから、一人で海辺で自刃した過程の描写である。
飯沼勲の割腹は前述の「詰腹」に近い。
人を殺してから自刃する。
自分の命で責任を取る。
天皇に、そして世間に自分の忠誠な心を見せるつもりだろう。
結 論
この論文は三島由紀夫の長編小説『豊饒の海』の前二巻『春の雪』と『奔馬』を取り出して、この二巻に表れた日本の伝統文化の「雅」と「勇」両部分を少し分析した。
美とは何か、そして日本の伝統的な美学文化とは何かに触れた。
『豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の小説『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四部作からなる長編。
『浜松中納言物語』に題材をとる。
1969年(昭和44年)から、1971年(昭和46年)二月まで、雑誌「新潮」に連載された。
「夢と転生」がテーマ。
二十歳で死ぬ青年が、次の巻の主人公に生まれ変わっていく。
仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬、など様々な東洋の伝統を踏まえて書かれている。
文人貴族と武将は、ぞれぞれの審美情趣がある。
彼らが創った平安時代と幕府時代の文化は勿論大変違う。
『豊饒の海』の前二巻はこの対照的な二つを統一した。
「夢と転生」
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