私の目から见た日本と中国Word下载.docx
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日本人の中には、誰が見てもこれは日本人だという風貌の人もいますが、中国人と全く区別のつかない顔立ちの人もたくさんいます。
同じ事が中国人についても言えます。
見るからに日本的な風貌の中国人もいれば、いかにも中国的な顔立ちの日本人も山ほどいます。
だが、それは顔を見た限りのことです。
その人に二言、三言、何か喋らせたら、たちまち何国人かはすぐにわかってしてしまいます。
なぜならアクセントと表現法が違うからです。
最初、日本も中国も同じ漢字を使用する国であるので、私は大きいな違いはないと思っていました。
しかし、実際日本に来てみると中国の場合は漢字の一つ一つに意味があり、その字を見るとどう言うことかすぐに判ります。
それに比べて日本の場合はそうではないものが多々あります。
ひらがな文字の意味についてはなかなかわかりにくく、特にカタカナ、それも外国語をカタカナで表現するものに至っては、全然何の法則もないので、私共にとっては一番難解な文字です。
しかし、これは考えようによっては日本人はよそからの色々な外来文化を自分流にカタカナに変えることでいつの間にか自分のものにしてしまうと言う日本独特の外来文化吸収法の一つとも言えるのでしょう。
この点が中国と大きく違うところでしょう。
中国にも丁寧語はありますが、中国の丁寧語には一定の法則があり覚えるのには別段苦労しません。
私が日本に来て一番最初に苦労したのは「お」を付ける言葉と付けない言葉の違いでした。
丁寧語(敬語)には「お」を付けなさいとまず教えられましたので、アルバイトをしている店でお客様に「お三階へどうぞ」と言いましたところ、皆が笑い出しました。
私は二階を他人が「お二階」と言うので当然三階もお三階でいいと思いました。
そこで「お」を付ける場合と付けない場合を教えて貰いました。
「お野菜」「おねぎ」「おいも」「おなす」はありますが、「おほうれん草」「おかぼちゃ」「おトマト」「おキャベツ」「おもやし」とはいわない。
短い音節のものに「お」を付け、長いものには付けないのかと思うと必ずしもそうでなく、「おだいこん」という同じ根菜でも大根には「お」をつけるが、ニンジンやごぼうには付けない。
なんらかの法則があるのだろうと思い色々考えて見たが、ますますわからなくなりました。
海産物で言えば「お魚」「お刺身」とは言うが「お鯛」「おマグロ」など個々の魚に「お」を付けることはない。
調味料は「お醤油」「お味噌」「お酢」「お塩」「お砂糖」とは言うが「お胡椒」「お唐辛子」「おスパイス」とは言わない。
料理は「おにしめ」「おすまし」などは言うが「お茶わん蒸し」「お焼き物」とは言わない。
「おそば」とは言うが「おラーメン」とは言わない。
このように法則性がまるでないため結局丸暗記で一つ一つ記憶するしかないと悟りました。
丁寧語の失敗では「君」「きみ」という言葉であります。
中国語で「君」は相手を尊敬する言葉ですので「君」「君」と言われたので、わたしに気を遣って丁寧に言ってもらったんだと思い、お客さんに「君は何を食べますか」と言ったら店の主人から「何を言うのか」と注意され、また先の「お」を付けると丁寧と思っていたので、料理をお客さんの前に出すときに私は丁寧にと思って「お前にすみません」と言いましたらお客さんがふきだしビックリして私の顔を見ますので私も不思議な顔をして相手を見ました。
また、こんな事も経験しました。
「すみません」または「ごめんなさい」もひとつの丁寧語なのだと言うことに気付きましたが、最初に言われたときはビックリしました。
よく日本人は「すみません」「ごめんなさい」と言います。
何でもないような時に相手が「ごめんなさい」と言います。
私はビックリして「えっ、この人はどんな悪いことを私にしたんだろう何?
何?
」とビックリして考え込んでしまいましたけれども、それは単なる挨拶のようなもので丁寧に言われたとの事でしたが、私には悪くないのにすぐ「すみません」とか「ごめんなさい」と言う言葉を出すことが理解できませんでした。
しばらくすると、そういう言葉は、私たちが日常生活をして行く上での一つの潤滑油としてお互いがスムーズに生活して行く上の生活の知恵とも言うべき言葉なのだと分かりました。
あやまることは自分が悪いからであって、あやまれば賠償間題がからんでくるので、欧米社会ではなかなかあやまらないのが通常ですが、日本の「ごめんなさい」「すみません」という丁寧語は自分を一歩下げてものを言うやり方でお互いの関係をより良くするのに役立っていると考えられます。
本当に日本の丁寧語は難しいと思います。
1.2 ボカシの表現法
漢字が共通だと言っても、それを用いた表現のしかたは日本人と中国人では大きく違います。
中国人の大袈裟な表現の例として「白髪三千丈」がよくあげられます。
この李白の詩は、愁いの深さを表現するために白髪が三千丈にもなってしまったと言っているわけですが、日本にはこういう表現法があまりないようです。
しかし、日本語でも「暑くて死にそうだ」と言うような言い方もあるにはあるようです。
中国語にはこうした言い方が沢山あります。
「累死了」(ひどく疲れた)「高興死了」(大変嬉しい)「急死了」(ひどくあせる)といったように。
これでは何回も死ななければなりません。
中国人はほめるときは天まで持ち上げますし、非難するとなると徹底的に悪口を言います。
どちらにしてもそれをそのまま受け取るようなことはありません。
日本の弔辞は中国人から見ると悲しみの気持ちがもうひとつこもっていないように思われますが、考えてみると中国の弔辞はあまりに美辞農句過ぎてこれもまた気持ちがこもっていないのかなと考えるようになりました。
中国人から見て違和感を感じるのは日本人の曖昧な「ボカシ表現法」です。
「結構です」といわれるのは「サンキュー」なのか「ノーサンキュー」なのか非常にわかりにくい。
先日ある先生が講義の中で「この説は正しい」といわれ、続いて「と言ってもいい」と付け加えられましたが、その次に先生は「のではなかろう」と言い、次に力強く「か」と言い添えられました。
そして最後に「と思われる」とさらに付け加えられました。
私は頭の中が真っ白になって一体これは何なのだと、呆然としました。
「ボカシの表現法」では断言しない言い方が沢山出て来ます。
この断定しない言い方を好むのも日本人独特のものではないでしょうか。
例えば「あなたはどちらにお住いですか」との問いに「はい宮崎の方です」と答えます。
宮崎に住んでいるのに「宮崎の方に」と方角で答えます。
質問する方も「どこにお住いですか」と聞くべきなのに「どちらに」とはっきり言わない。
あるいは「コーヒーでも飲みませんか」という言い方も日本人にとってはごく普通の言い方です。
この「でも」を付けることによって言い方がたいへん柔らかくなると思います。
「コーヒーを飲みませんか」と言うと飲み物はコーヒーに限られてしまいますが「コーヒーでも」と言われると「紅茶を飲んでもいいんだな」と言う具合に幅が出て来ます。
日本人の論文を読んでいますと「こうなのではなかろうか」とか「こうなんじゃないかと思われる」と言う文章がたいへん多く目に付きます。
欧米や中国ではこう言う方はあまりしません。
「こうだ」とはっきり言います。
このようにはっきり言わない「ボカシの表現法」が日本人には多くあります。
「遊びに来てくださいね」日本人は心からそう思ってなくても平気で人をさそいます。
私ははじめて会って一寸話をしただけの人から「じゃあまた遊びに来てね」と言われてビックリしました。
名前だけで住所も全然わかりませんし、また相手も自分の住所を説明しません。
「何だこれは?
」と思いました。
しかし、これも「ごめんなさい」の発想と同じ挨拶程度の「ボカシの表現法」なのだと判りました。
同じように近所のおばさんに「こんにちは」と挨拶したら「どちらまで」と言われてビックリしました。
どうして私がそのおばさんに私の行くところを説明しなげればならないのだろうと不思議に思いましたが、これも日本人のくせで、挨拶がわりの「ボカシの表現法」で相手は別にこちらの行く先を本当に知りたいと思っている訳ではなく、こちらも「はい一寸とそこまで」と言っておけばいいのだと言う事を教えてもらいました。
このように日本人にとってお互いの生活がスムーズに流れるためにはこのような「ボカシの表現法」が大きな役に立っている事を勉強する事が出来ました。
1.3 漢字と中国文化
いま日本ではカタカナ文化が氾濫していますが、これはいわば第二次の外来文化であって、第一次の外来文化は古代朝鮮を経由したか、あるいは直接に日本に渡ってきた中国文化でしょう。
早い話が毎日飲むお茶も中国が原産です。
中国南方では「茶」を「テ」と発音します。
これが南まわりでヨーロッパにいって「ティー」となったと勉強しました。
また、中国の北方では「チャ」と発音します。
これが北からロシアや中央アジアに渡り「チャイ」となりました。
そして日本はそのまま「チャ」「茶」になりました。
食品で「胡」がつくのは西域から中国を経由して日本に入って来たものです。
「胡椒」「胡麻」「胡瓜」などは皆そうです。
また、草花の名前で中国伝来のものは非常に多くあります。
桃、栗、柿、梅などはいうにおよばず、百日紅、合歓などもそのまま同じ文字です。
目で見、手でさわれるものだけではない、精神の世界でも中国の文化は日本に大きな影響を与えていると思います。
「論語」「老子」「史記」など中国の古典の影響は大きなものがあると思います。
日本の元号の「平成」も史記のなかの五帝本紀に「内平らにして天成る」を参考にして作られたと聞いています。
中国の古典から出て、いまは日常語になっているものも沢山あるようです。
例えば「自己啓発」の「啓発」は「論語」の「啓せずんば発せず」をちぢめたものです。
「完璧」や「四面楚歌」は「史紀」に出て来ます。
習慣のなかにも中国伝来のものは少なくありません。
「端午の節句」七夕、立春、冬至等々沢山あります。
漢字は日本のカナと違い文字自身一つの完成された文化ではないでしょうか。
一字一字の意味があり、その成り立ちにも理屈があります。
男と言う字は田の中で力一杯働く姿を表したものであり、「嫋」と言う字は弱々しそうな女が美しく見えるようを表現しています。
水の中で弱ってしまったのが「溺」で、日本人は更に弱る魚に鰯(いわし)という字を作ってあてました。
このように、その一字一字に物や現象の本質をとらえて作られたものが漢字であり、それ自身完成度の高い文化であると考えます。
中国人は漢字のもつ文化を非常に高く評価していると思います。
中国人は何千年の歴史の中で自分達こそが世界の文明の中心に位置しているという「中華思想」を、私は意識はしませんが、受けついで来ているのではないでしょうか。
中国を歴史的に見れば、塞外から攻め込んでくる蛮族に繰り返し統治を受けながらも、それらをことごとく同化していった文化の歴史があるだけに、近代に至ってもいかに武力的に強力な相手であろうとも、自分達よりすぐれた文化の持ち主であるとはなかなか認めようとしないのです。
1.4 漢字文化とカナ文化
漢字の国とカナの国の違いを前に漢字は一字一字に意味があり、その成りたちにも理屈があり、漢字はそれ自身一つの完成した文化を意味すると書きましたが、こうした文字の文化が日本にやってきて思想を表現する道具として日本語化しました。
しかし、漢字が入って来る前から日本にはすでにヤマト言葉がありましたが、それを記録する字がなかったそうです。
日本人は新しく入って来た漢字を略字化して、あ、い、う、え、お、と言うカナを作り出しました。
「あ」は安、「う」は宇、「え」は衣、「お」於とルーツははっきりしていますが、それぞれの字に特別の意味はないそうです。
カナはヤマト言葉を表現するための字として利用され、かつ漢字を読む時の音標文字として使われるようになったそうです。
本来の漢字は、呉音も漢音もすべて今日の日本語の発音とは異なるものであったようですが、日本人はそれらの発音をすべて五十一字のなかにおさめてしまったのだそうです。
どうしてそういうことができたかというと、ヤマト言葉のあいうえおは、日本人の音標文字であって、それ自身に意味がなかったからです。
日本人は漢字を思想表現の道具として受け入れたけれども、それはヤマト言葉の素地の上に新しい表現が加わっただけのことであって、日本語が中国語に置き換えられた訳ではありません。
だから日本人が自分達の師を中国文化から西洋文化に乗り換えると日本語は英語でもドイツ語でもフランス語でも、ローマ字で表現される言葉を何の苦もなく取り入れる事が出来たのではないでしょうか。
たまたま、ひらがなのあとにカタカナが生まれ、新しい外来語はカタカナで表現されるようになったので、日本人はかつて漢字を自分達の新しい思想表現の道具として取り入れたように、新しい外来語を新しい思想や新しい生活感情を表現する道具として、何のためらいもなく取り入れるようになったのだと考えられます。
もともと音標文字にすぎないカタカナだから、どんな外国語もカタカナにあてはじめると日本語に変わってしまいました。
ただし日本語にない音をそのまま発音することは日本人には難しくて出来ません。
日本語で書き表わす事の出来ない、「T」とか、「L」とか、「R」とか、「Ⅴ」とかの音は、そのままでは日本語にならないので、日本語になった途端に本来の外国語とは似つかぬものにかわってしまいます。
私達が一番困るのがこのカタカナの外来語です。
特にカタカナとカタカナを日本語の接続詞でつないだ新しい日本語は、日本語を学ぶ外国人にとっては誠に難解な言葉です。
ただ歴史的に考えて見ると、日本語は漢字が入って来た大昔から、日本語は外来語を取り入れる事によって新しい言葉に次々と変化して来たのです。
ヤマト言葉がもともとそうした変化を可能とする構造の言葉だったようで、日本人のあらゆる事に対する対応のうまさにも繋がっているのではないかと思われます。
これに比べて漢字そのものは残念ながらそういう具合には出来ていません。
漢字の一字一字がすでに完成した意味をもっていて、しかも一つの音で成り立っていますので、変化の仕様がありません。
「ボー」、「ポー」、「モー」、「フォー」と言った音の分解はできますが、それを繋ぎ合わせて出来た文字を分解して別の意味に変える事は出来ません。
だから文字の一字一字を繋ぎ合わせて意味のある言葉にすることは出来ても、ローマ字やカタカナのような音標文字でありませんから、ドンドン語尾が変化して似ても似つかぬ言葉になってゆく事はありません。
従ってヨーロッパ諸国のように同じローマ字を使いながらドイツ語やフランス語や英語がお互いに通じない言葉に変わっていったのに対して、北京語と広東語や上海語は発音すると、まるでチンプンカンプンの言語でありますが、字に書くと皆同じ字になるのは象形文字がそれ自体完成した構造になっていて、容易に壊す事の出来ない性質を持っているからでしょう。
またそれだからこそ、歴史上たびたびの分裂さわぎに見舞われながら、漢字があの大きな中国全体を統一へ戻す絆の役目をはたしたと見ることが出来ます。
漢字は象形文字であると同時に象徴文字でもあります。
例えば「貝」と言う字は貝殻の形が省略されて出来たものですが、貝殻をお金として使用した歴史があるので、お金を意味する「貨」と言う文字が出来ました。
もともと貝と言う字にはお金と言う意味がありますから、お金を集める才能は「財」であり、お金と玉器を家の中に集めた物は「寶」であると言った具合に、現象や動作や思想や物の本質を字そのもので象徴しているのです。
そう言った意味ではよく考えて作られた文字ではありますが、漢字が作られた当時の人智をこえる新しい事象を説明しようとすると、字そのものが不充分であろうと思われます。
その点カナは漢字及び漢字文化を取り入れることもできれば、ローマ字及びローマ字文化を何の抵抗もなしに受け入れることもできました。
中国人はローマ字文化の内容をいちいち漢字になおさないと、現象そのものすら理解できないところがありますが、日本人は漢字にカナをふって受け入れたように、ローマ字にカナをふって受け入れることがいとも簡単にできます。
とりわけ西洋文化を取り入れるにあたって制度だけではなく、それを表現する言葉にフリガナをして、そのまま取り入れることにほとんど何のためらいも感じないようです。
と言うわけで外国語の名詞と名詞を繋ぎ合わせるだけで新しい日本語になり、日本人同士で意思の伝達をするのに何の支障も感じないようになったようです。
もともとそういう具合に出来た言葉であり、また精神構造だから外国語文化にフリガナをすることによってあらたな文化を作ってゆくのが、日本文化であると言えるのかもしれません。
第二章 慣 習
2.1 食文化について
中国で「ご飯食べました?
」は挨拶言葉です。
親しい者同士が食事時に顔を会わせれば「ご飯食べました?
」と言う言葉がごく自然に出て来ます。
ある意味では、日本人の「いいお天気ですね」と同じです。
しかし、この挨拶言葉というものはその社会に入って見ないとなかなかわかりにくいと思われます。
日本語の「こんにちは」にあたる中国語は相手と時と所によっていろいろな言い方があります。
だから「ご飯食べました?
」イコール「こんにちは」でもないし「ニーハオ」がイコールすべて「こんにちは」でもありません。
「ニーハオ」がれっきとした中国人同士の挨拶言葉であることは間違いありませんが、ただどちらかといえば少し「よそゆき」の言葉であって、親しい者同士ではあまり日常的には口にしません。
これは日本語の「こんにちは」にしても同じ事ではないでしょうか。
例えば、同居している家族同士が顔を会わせたとき「こんにちは」とは言わないでしょう。
中国でも色々な言い方がありますが、この「ご飯食べました?
」というのも、ごく自然な挨拶の一つなのです。
そして、こういう挨拶がすんなりと出てくるところに、中国人の「食」に対する関心の深さがあらわれていると思います。
関心と言うよりはもっと強い、品よく言えば「食願望」であり、下品に言えば「食への執念」でしょう。
そこからごく自然に生まれてきた言葉ではないでしょうか。
勿論食へのこだわりは中国人だけのものではないでしょう。
日本でもこのごろは「グルメ」ばやりで、テレビでも料理番組がしょっちゅう流れています。
でも日本人の「グルメ」なるものはきわめて趣味的であり、どこかひ弱な感じがします。
舌先だけの事であり、口先だけのことではないでしょうか。
そこへいくと中国人の食意識はもっと根強く、生活であり、全身全霊がかかっていると言ってもいいのではないでしょうか。
中国人のそのものさしを理解するためには、その「食願望」を知って貰わなければならないと思います。
なにしろそれは昨日や今日のことではなく、ラーメンの広告ではありませんが、大袈裟に言えば四千年の歴史を背負っているからです。
良かれ悪しかれ中国は伝統の力がことのほか強いと思います。
とくにこの「食願望」は遺伝因子がかなりのウェイトを占めていると思われます。
「酒池肉林」と言う言葉は日本でもよく使われるようですが「酒の池」「肉の林」といった発想がすさまじい「食願望」を示しています。
「酒の池」というのは日本にも「養老の滝伝説」があるようですが、皮を剥いたままの肉塊がズラリとぶら下っている「肉の林」が願望であるという事になると日本とは執念の度合いが違うのではないかと思われます。
中国の「美味追求」はあまりにも有名です。
なかには文献や話の上だけのものありますが、「熊の掌」、「ラクダのこぶ」、「蛭のスープ」と発想自体が飽くなき食願望の産物です。
勿論、だれもがゲテモノを好むわけではありませんが、広州の蛇料理などは日本の鰻以上の市民権を持っていると言ってもよいでしょう。
「四つ足のものは机以外、飛ぶものは飛行機以外、水中のものは潜水艦以外なら何でも食べる」と言われるほど材料が多彩なこともさることながら、徹底的に凝った料理法も中国料理の特徴でしょう。
例えば、前記の「熊の掌」は熊の右手を粘土で包んで焼き、毛をむしる、そして三日三晩、薬草を加え湯を変えては煮上げます。
日本料理も凝っていると言われますが、それはむしろ食べるより目で眺めて楽しむと言う芸術品の世界ではないでしょうか。
そこにいくと中国料理はタップリ感いっぱいの御馳走なのです。
日本でも魚の活き造りは頭ごと食卓に出てきますが、動物は出てきません。
だが中国の場合、例えば、北京ダッタは、はじめに頑の部分を主賓にささげます。
これは最大の敬意をあらわしています。
ブタの頭も御馳走です。
まるごとというのは材料を無駄にしないという経済牲だけでなくタップリ感、コッテリ感とも関連があると考えられます。
「満漢全席」と言う名前のついたコース料理がありますが、これは王室の宮廷料理から民間に広がったものです。
満州族と漢民族の料理の粋をあわせて作ったもので、その品目の多い事まさにタップリ感の粋であろうと思います。
これに対して日本料理はよい素材を選ぶ事と、素材の味をうまく生かすところにあるのではな
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