日本戦国武将简历5Word格式.docx
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日本戦国武将简历5Word格式.docx
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~1576
信濃高井郡・水内郡を本拠とした国人で父は澄頼。
中野城(館)主。
天文年間、村上義清らとともに北信濃に侵攻してきた武田信玄と争うが、支えきれず越後の上杉輝虎(謙信)を頼る。
以後謙信麾下に属し川中島の合戦では先鋒の一角を務め奮戦するが、旧領回復を見ずに世を去った。
高野兼親(たかの かねちか) ?
~1601
壱岐守、名は知安とも。
伊達政宗の家臣で陸奥伊具郡丸森城主。
政宗の下で奉行職を務め、仙道高倉・窪田郡山・相馬の役に戦功を挙げ丸森城千石を与えられる。
さらに大崎一揆討伐・文禄の役にも活躍、国老に昇格した。
高橋紹運(たかはし じょううん) 1548~1586
豊後大友氏の重臣。
豊州三老の一人・吉弘鑑理の二男で通称弥七郎、主膳兵衛。
名は鎮理のち鎮種、紹運は法号。
立花宗茂の実父。
筑前宝満・岩屋城主。
元亀元年五月、大友氏に背いた宝満城主高橋鑑種の後任として同城を預かる。
天正十四年七月、北上する島津軍五万をわずか七百余の兵で岩屋城に迎撃、徹底抗戦の末に一人残らず玉砕という壮絶な最期を遂げた。
多賀谷重経(たがや しげつね) 1558~1612
常陸下妻城主政経の子で初名は大二郎、修理大夫を称す。
豊臣秀吉の小田原攻めの際参に陣して謁見、所領安堵されるが朝鮮の役では出兵しなかった。
関ヶ原の際に西軍に属し失領、佐竹氏に従って秋田に行ったとも、放浪して客死したともいう。
高山右近(たかやま うこん) 1552~1615
友照の子で本名は重友。
はじめは織田信長の重臣・荒木村重に属した高槻城主のキリシタンで、受洗名はジュスト。
後に改宗を拒否して国外追放され、追放先のマニラで程なく病死。
滝川一益(たきがわ かずます) 1525~1586
左近将監。
信長の重臣で鉄砲に長じ、後に関東管領に。
甲賀忍者上がりとの説もある。
本能寺の際に北条軍と戦って敗れ、このため清洲会議では発言権を失う。
後に秀吉に降伏、隠居先の越前大野にて病没。
滝川雄利(たきがわ かつとし) 1543~1610
伊勢安濃津の土豪木造具政の二男で通称三郎兵衛、のち刑部卿法印一路を称す。
はじめ僧籍にあり主玄と号したが、還俗し滝川一益の婿養子となり織田信雄に仕える。
のち秀吉に御咄衆として仕え、関ヶ原の際には西軍に加担し失領。
程なく家康に召し出されて常陸片野二万石を与えられ、御咄衆として仕えた。
武田勝頼(たけだ かつより) 1546~1582
武田信玄の四男で信濃高遠城主のち甲斐新府城主、母は信玄に謀殺された諏訪頼重の娘。
幼名四郎、元服後諏訪氏を称すが信玄死去により家督を相続。
猛将として知られたが、相次ぐ身内の離反や長篠の敗戦で武田家そのものが弱体化、織田・徳川両軍に攻め込まれ最後に頼った重臣の小山田信茂にも欺かれ、天目山の麓・田野にて妻子と共に自害した。
武田信玄(たけだ しんげん) 1521~1573
甲斐守護武田信虎の嫡男。
はじめ晴信、のち入道して信玄を称す。
軍政・外交・謀略すべてに優れた名将で、無敵の騎馬軍団で知られる戦国時代の巨星。
惜しむらくは北隣に上杉謙信という偉大なライバルがいたため、思うように版図は拡大できなかった。
上洛途中に持病の労咳が悪化、遠江三方ヶ原に家康を撃破したが帰国途中に信州駒場の陣中で病没。
武田信廉(たけだ のぶかど) ?
~1582
武田信玄の弟で信虎の四男(六男とも)。
はじめ刑部少輔を称し、信玄没後に出家し逍遙軒信綱と改名。
元亀二年勝頼に代わり信濃高遠城主を務め、のち伊那郡大島城主となる。
天正十年織田勢の侵攻の前に無抵抗で信忠に捕らえられ、甲府相川で処刑された。
絵画に才能があり、父(信虎)・母(大井夫人)の画像など多数の秀作を残した。
武田信繁(たけだ のぶしげ) 1525~1561
武田信虎の二男で信玄の弟。
通称左馬助、(古)典厩を称す。
父信虎は信繁を跡取りにしようと考えていたほど軍政両面に秀でていたと伝えられる。
信玄はじめ家臣の信望も厚く、信玄の補佐役に徹した名将であったが、永禄四年の川中島の合戦にて奮戦虚しく戦死した。
武田信虎(たけだ のぶとら) 1494~1574
武田信縄の子で甲斐守護。
対立していた叔父信恵を滅ぼし、甲斐を統一。
暴君の評判が高く、信玄を廃そうと考えたことから逆に国を追われ駿河へ追放され、今川氏の庇護を受ける。
後に京で隠居中に孫の勝頼から帰国を認められたがすでに発言権はなく、信濃高遠城で病没した。
武田元繁(たけだ もとしげ) ?
~1517
安芸守護武田氏の末裔で、佐東郡銀山城主。
はじめ大内義興に属したが、永正12年義興に背いて銀山城に隣接する城砦に攻撃を加えたため、義興傘下の武将毛利・吉川氏と衝突。
翌々年山県郡有田城攻めに出陣した際、救援に駆けつけた毛利・吉川連合軍に敗れて戦死した。
武田義信(たけだ よしのぶ) 1538~1567
武田信玄の嫡男で母は公家三条公条(きんえだ)の娘。
妻は今川義元の娘。
元服時に将軍足利義輝の偏諱を受け義信を名乗る。
永禄四年の川中島合戦以来父信玄と対立、永禄八年重臣飯富虎昌らとともに謀反の嫌疑をかけられ虎昌は切腹、義信は東光寺に幽閉され、二年後に自害させられた。
竹中重治(たけなか しげはる) 1544~1579
元斎藤龍興の家臣で通称半兵衛。
のち信長に仕え秀吉に属す。
その容貌や的確な状況判断から羽柴家の諸葛孔明と言われ、羽柴秀吉時代の数ある戦功の大半はこの重治の活躍に負うところが大きい。
しかし生来病弱だったため、秀吉に従って中国平定出陣中に姫路の陣中で病没した。
竹俣慶綱(たけまた よしつな) 1524~1582
上杉謙信・景勝の家臣で越後蒲原郡竹俣城主、三河守を称す。
竹俣氏は「揚北衆」と呼ばれる国人の一人で、同郡加地荘を本拠とした。
天正九年から越中魚津城の守備に就くが、翌年織田勢の総攻撃の前に落城、山本寺景長・中条景泰・吉江宗信らとともに自刃した。
多湖辰敬(たご ときたか) ?
~1562
尼子家の重臣で特に内政能力に優れ、寺社奉行を務めた石見国刺賀岩山城主。
毛利元就の侵攻を何度も撃退するがついには戦死。
十七ヶ条から成る「多湖辰敬家訓」を残した。
立花宗茂(たちばな むねしげ) 1567~1642
通称左近将監。
実父は筑前岩屋城主高橋紹運(鎮種)、義父に立花道雪をもつ筑後柳川の勇将。
はじめ統虎、晩年は立斎を称す。
関ヶ原の際には西軍に加担したため、戦後所領を没収され奥州棚倉一万石へと減封されたが、私利私欲のない行動は家康にも高く評価され、元和六年に筑後の旧領柳川十一万石の主に復した。
立原久綱(たちはら ひさつな) 1531~1613
尼子家の重臣で晴久・義久・勝久三代に仕えた出雲大原郡加茂立原城主。
幸綱の二男で通称は源太兵衛、山中鹿介幸盛の叔父に当たることから鹿介とともに行動して主家再興に尽力した。
しかし武運拙く、勝久自刃(上月城落城)の際に吉川元春に捕らえられるが脱走、信長の下に身を寄せ出家し珠栄と号した。
晩年は娘婿の福屋隆兼を頼って阿波へ赴き、慶長十八年に同地の渭津で没した。
伊達定宗(だて さだむね) 1574~1652
亘理重宗の長子で通称源五郎、安芸守。
伊達家の重臣で政宗に重用された。
慶長五年の白石城攻めや大坂の陣で活躍、伊達姓と一万石を与えられて一門に列せられた。
次男安芸守宗重は仙台藩の柱石といわれる。
伊達実元(だて さねもと) 1527~1587
伊達稙宗の三男、兵部大輔。
天文七年越後守護上杉定実との養子縁組が成立、これを機に定実の偏諱を受け実元と改名。
しかし越後ではこれに反対した内乱が起き、伊達家でも「天文の乱」が起きたため実現はしなかった。
のち家督を嫡子成実に譲り信夫郡八丁目城に隠居、棲安斎と号した。
伊達成実(だて しげざね) 1568~1646
実元の子で通称藤五郎、安房守を称す。
仙道人取橋合戦・郡山合戦・摺上原合戦などで戦功を挙げ、伊達家一門衆の勇将として政宗に重用された。
一旦伊達家を去り高野山に入ったが復帰して亘理城主となる。
伊達政宗の一代記「成実記」の著者としても知られる。
伊達稙宗(だて たねむね) 1488~1565
左京大夫。
政宗の祖父で奥州伊達家の礎を築いた。
子の晴宗との間に内紛問題(洞の乱)も起こったが、分国法で名高い「塵芥集」を著すなど政治手腕も優れた。
蓼沼友重(たでぬま ともしげ) 生没年不詳
通称藤七、上杉謙信・景勝の家臣で泰重の弟。
御館の乱の際には景勝側につき、旗持城に籠もって敗走してきた景虎軍を邀撃、翌年には鯨波に景虎軍を撃破。
のち新発田重家の謀反の際には阿賀野川河口で重家勢の兵船を撃破した。
蓼沼泰重(たでぬま やすしげ) ?
通称掃部助、上杉謙信・景勝の家臣で友重の兄。
天正九年、景勝に命じられて越中魚津城の守備に就くが、翌年六月三日に織田勢に総攻撃をかけられ落城、守将の山本寺景長・吉江宗信・竹俣慶綱らとともに自刃した。
伊達政隆(だて まさたか) 1590~1615
岩城常隆の子で、はじめ岩城長次郎を称す。
慶長十二年に伊達家に仕え、同十五年(十三年とも)には伊達姓を許されて一門に列した。
一説に岩城貞隆の子ともいう。
伊達政宗(だて まさむね) 1567~1636
輝宗の子。
仙台藩祖で幼時に右目を失明、独眼竜の異名を持つ奥州の名将。
父輝宗の奇禍により家督を相続して以来、奥州の国人衆を次々と攻略、広大な勢力を築いたが秀吉の小田原攻めへの遅参を咎められ、所領を削られた。
長女の五郎八(いろは)姫を家康の子・忠輝に嫁がせ徳川家との結びつきを強め、また南蛮貿易を企図し家臣の支倉常長をスペインに派遣したことでも知られる。
田手宗時(たて むねとき) 1551~1582
伊達輝宗の家臣で通称右門、式部を称した伊具郡角田城主。
父宗光は相馬氏のもとに奔るが、宗時は残り本領を安堵される。
天正十年、相馬の役の際に出陣、奮戦むなしく討死した。
伊達宗直(だて むねなお) 1577~1629
伊達稙宗の孫で通称右門、相模守。
武勇才略に優れ、白石宗実の娘に配されて白石氏を嗣いだ。
和賀の乱の際に罪を得て寺池城に移されるが、北上川改修と新田開発に力を入れ、荒地を二万石の地に変貌させた。
後大坂の陣の活躍により伊達姓を許された。
田中吉政(たなか よしまさ) 1548~1609
元は農民の出自で、数年で大名にまで出世した「ミニ秀吉」的な異色の武将。
関ヶ原の際にはかつての僚友石田三成を自ら捕らえ、その功により三河岡崎十万石から筑後柳川三十二万石の城主に抜擢された。
柳川では土木・農政の開発に尽力するが、慶長十四年二月に京都で客死した。
谷 忠澄(たに ただすみ) 1533~1600
長宗我部氏の重臣で通称は忠兵衛、のち土佐幡多郡中村城代。
元親を常に側で助け、秀吉の四国征伐の際には渋る元親を説得して豊臣方との降伏調停に奔走、主家を滅亡から救った。
出自は土佐神社の神官と伝えられる。
また天正十四年の豊後戸次川の戦いでは、戦死した信親の遺骸を受け取りに島津方新納忠元のもとへ赴いた。
谷 衛好(たに もりよし) 1529~1578
幼名小太郎、大膳亮。
美濃の土豪福田正之の二男で、伯父谷衛之の養子となる。
はじめ斉藤氏のち織田信長の下羽柴秀吉に属して戦功を挙げ、播磨平田で六千石を領した。
天正六年九月、秀吉の三木城攻めに従軍して平田大村砦の守将となる。
同七年九月九日、兵糧を絶たれ窮した別所勢の急襲を受け奮闘するが壮絶な戦死を遂げた。
種子島恵時(たねがしま さととき) 1503~1567
島津氏家臣。
忠時の子で大隅種子島氏第十三代当主。
通称左兵衛、加賀守を称す。
天文八年の島津氏による市来平城攻めに加わって以来島津貴久に従い、同十七年の北原攻め、翌年の加治木攻めなどに参加。
天文十二年には子の時堯とともに我が国初の鉄炮を入手した。
種子島時堯(たねがしま ときたか) 1528~1579
恵時の子で大隅種子島氏第十四代当主。
通称左兵衛、左近将監・弾正忠を称す。
名は直時とも。
天文十二年に父とともに自領種子島西村浦に漂着したポルトガル船より鉄砲を入手、製法や操作法を学び取り、初の国産銃「種子島銃」を制作した。
弘治元年以降、蒲生攻め・肝付攻めなどで活躍するが、屋久島をめぐって禰寝(ねじめ)氏と抗争した。
種子島久時(たねがしま ひさとき) 1568~1611
島津氏家臣で義久・義弘の家老。
時堯の二男で大隅種子島氏第十六代当主。
通称三郎次郎、左近大夫を称す。
名は克時とも。
天正十二年に兄時次の早世により家督を嗣ぐ。
鉄炮に長じ、対龍造寺・大友戦や朝鮮の役で活躍。
天正十一年には、田布施において義久の前に走り出た猪を捕え賞されたというエピソードを持つ。
田原親賢(たわら ちかかた) ?
~1600
奈多大宮司鑑基の子で妹は大友宗麟の妻。
民部大輔、尾張守、近江守のち近江入道紹忍を称す。
大友家にあって宗麟の妻とともに反キリシタンの立場にあり、天正五年に養子親虎が受洗したため廃嫡。
大友義統の国除後は秀吉から三千石を与えられて中川氏の与力となった。
関ヶ原の際には主家再興を目論む義統に合力するが佐賀関で太田一吉に敗れ戦死。
《武将編ち:
千坂景親~長 連竜》
千坂景親(ちさか かげちか) ?
~1606
越後蒲原郡白河荘を本拠とする国人で、同郡護摩堂(鉢盛)城主。
藤右衛門景長の子で対馬守を称す。
上杉謙信・景勝の家臣で天正三年には七手隊頭を務めた。
謙信没後は景勝に仕え、京都伏見留守居役を命じられた。
千葉邦胤(ちば くにたね) 1557~1585
胤富の嫡子で北条氏傘下の下総の国人。
父胤富の死去により千葉家当主となる。
妻は北条氏直の姉(名目上は養女)。
父胤富や北条氏に従い各地を転戦、勇将の名を馳せたが天正十三年近臣の遺恨により本佐倉城内で暗殺された。
千葉胤富(ちば たねとみ) 1527~1579
千葉介昌胤の二男で北条氏傘下の下総の国人。
はじめ森山城のち本佐倉城主。
里見家の正木時茂に属城を奪われるが程なく奪回、また主家に背いて下総に侵入した正木時忠と九十九里平野で戦いこれを撃破した。
長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ) 1547~1600
畠山頼国の子で大善坊を称す。
名は阿多盛淳とも。
義弘の家老を務めた大隅蒲生地頭。
三歳の時以来紀州高野山・根来寺で修行、のち薩摩へ戻り安養院住持となる。
天正十六年には義久に同道し石田三成と会見、関ヶ原の際には義弘の身代わりとなり、豊久とともに東軍の追撃をくい止め壮絶な討死を遂げた。
長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか) 1565~1586
元親の嫡子で幼名千雄丸のち弥三郎を称す。
名の「信」は織田信長からの拝領。
秀吉の九州征伐の際、父元親や十河存保らとともに島津軍と豊後戸次川において戦う。
しかし軍監の仙石秀久や旧怨を含む十河存保と意見が合わず無謀な戦いを強いられ、敵方も称賛したほどの奮戦も虚しく二十二歳の若さで戦死。
その手には信長から贈られた名刀・左文字が握られていたという。
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか) 1539~1599
国親の子。
初名弥三郎、宮内少輔、土佐守。
軍政両面に優れた土佐の名将で、分国法「長宗我部元親百箇条」を制定したことで知られる。
天正十三年春に念願の四国統一を成し遂げるが、直後に四国へ侵攻してきた秀吉の大軍の前には衆寡敵せず、同年八月に降伏。
後は忠実な秀吉傘下の大名となり羽柴姓を許され、また従四位下に叙せられ土佐侍従と呼ばれた。
秀吉の九州征伐の際に戸次川合戦で長男信親を亡くしてからは精彩を欠くが、小田原攻めや文禄役にも参陣した。
慶長四年五月十九日、京都伏見にて没。
享年六十一歳。
長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか) 1575~1615
元親の四男。
兄信親の死により家督を相続。
父と共に「長宗我部元親百箇条」を制定した。
関ヶ原では西軍に属したため戦後に浪人、大岩幽夢と名を変え京の寺子屋の師匠にまで身を落とす。
大坂の陣の際は主将格の一人となり冬の陣で活躍したが、夏の陣で敗れ斬首された。
長 景連(ちょう かげつら) ?
通称与一、能登守護畠山氏庶流長連之(黒滝長氏)四代の孫と伝えられる。
上杉謙信・景勝の家臣で謙信の能登侵攻後に珠洲郡正院城将となる。
天正七年織田方温井景隆らの攻撃により越後に敗走、同十年には再度能登に入り鳳至郡棚木城を占拠するが、織田方長連竜に攻め落とされ討ち取られた。
長 続連(ちょう つぐつら) ?
~1577
通称新九郎または九郎左衛門、平加賀守盛信(秀連)の二男で長英連の婿養子となり、はじめ勝連を名乗り対馬守を称す。
能登守護畠山氏の重臣で鳳至郡穴水城主。
織田信長に通じ、上杉謙信の能登侵攻時に謙信方についた遊佐続光の降伏勧告を拒否したため、遊佐邸に呼ばれ自害させられた。
長 綱連(ちょう つなつら) 1540~1577
通称大九郎または左兵衛のち九郎左衛門、続連の子ではじめ重連を名乗る。
能登守護畠山義隆の重臣で義隆殺害時には遺児春王丸の後事を託された。
織田信長に通じ七尾城に籠もって上杉謙信に対抗するが、謙信方についた遊佐続光により殺害された。
長 連竜(ちょう つらたつ) 1546~1619
通称万松または九郎左衛門、続連の二男ではじめ池崎孝恩寺の臨済僧で宗顕を号したが、天正五年還俗、兄綱連とともに織田信長に通じ上杉謙信に対抗。
信長の能登統一後は鹿島郡福水城を与えられ前田利家の与力となり、本能寺の変後には利家に臣従し加賀藩の重臣となった。
《武将編つ:
津軽為信~角隈石宗》
津軽為信(つがる ためのぶ) 1550~1607
大浦守信の子で右京大夫を称す。
元は大浦姓を名乗り南部氏の被官だったが、南部家津軽郡代の実力者・石川(南部)高信を欺いて攻め滅ぼし独立。
小田原攻めの際にいち早く秀吉にまみえて臣従し所領を安堵され、ついに津軽を手中にした謀略家。
関ヶ原では東軍に属し、大垣城攻撃に参加した。
筑紫広門(つくし ひろかど) 1556~1623
惟門の子で筑後上妻郡山下城主。
名は義冬とも言い、左馬頭・上野介を称す。
豊臣秀吉の九州征伐の際に傘下に入り本領を安堵され、朝鮮の役で活躍。
関ヶ原の際には西軍に属したため戦後失領、肥後の加藤清正から招かれた際に剃髪して夢庵と号す。
清正歿後は細川忠興の斡旋で家康に仕えたという。
津田景康(つだ かげやす) 1564~1638
伊達家家臣で佐沼城主。
はじめは湯目氏を称していたが、豊臣秀次失脚事件の際には伏見津田ノ原にて秀吉に謁して主人政宗の潔白を愁訴、その疑惑を解いたことから政宗が忠誠を賞し、加領と同時に津田姓を名乗らせたという。
人取橋の合戦をはじめ、数多くの合戦で活躍した。
津田算長(つだ かずなが) 1500~1568
通称監物の名で知られる、砲術津田流の祖で紀州の鉄砲集団・根来衆の頭領。
名は「さんちょう」と読む場合もある。
自ら薩摩種子島に渡って当主の種子島時堯から一挺の鉄砲を購入し、紀州に初めて鉄炮を持ち帰ったと伝えられる。
帰国後直ちに芝辻清右衛門にこれを複製させ、根来・雑賀衆の鉄炮集団としての下地を作った。
筒井定次(つつい さだつぐ) 1562~1615 →戦国筒井氏
慈明寺順国の子で幼名小泉四郎、筒井順慶の従兄弟に当たる。
大和郡山のち伊賀上野城主、羽柴伊賀侍従。
順慶の養嗣子となり没後に筒井家を継ぐが天正十三年伊賀へ移る。
関ヶ原の際には東軍に加担するが、出陣中に居城を奪われる。
戦後所領安堵されるが慶長十三年に素行と治政の不行き届きをて家老中坊秀祐が幕府へ訴え出たことにより改易、鳥居忠政預けとなった。
大坂の役の際に敵方内通を疑われ賜死。
享年五十四歳。
筒井順慶(つつ
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