日本歴史简略版.docx
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日本歴史简略版
日本列島
日本では数十万前から、現在の列島の形ができた約一万年前までをいう。
大陸からナウマン象などを追ってきた人々が、岩かげやほらあなに住み、狩りや漁をして暮らしていた。
旧石器時代
©旧石器時代は石を打ちかいた打製石器(だせいせっき)や骨角器(こっかくき)を使っていた時代である。
©人々がまだ土器を使っていなかったので、先土器(せんどき)あるいは無土器(むどき)時代ともいう。
土器を使い始めた縄文時代
©人々は、狩猟(しゅりょう)、漁(りょう)、植物の採取(さいしゅ)で生活し、地面(じめん)を掘り、その上に屋根をかけた竪穴式住居(たてあなしきじゅきょう)で、定住生活を始めた。
縄文時代の生活
©弓矢、土器、磨製石器(ませい)
©ごみ捨て場である貝塚(かいづか)
©竪穴住居
©血縁の近い氏族の共同体社会
©身分の上下関係や貧富の差がなかった
縄文人の信仰
生活が自然条件に左右されるところから、縄文人は自然や動植物に霊魂が存在するとしての抜歯(ばっし)、女性をかたどった土偶(どぐう)にみられる呪術的風俗が行われた。
屈葬(くっそう)されているのは、死者の霊が、生者に災をもたらすことを恐れたのである。
弥生時代(やよいじだい)
©弥生時代はおよそ紀元前3世紀頃から紀元3世紀頃にあたり、600年にわたる時代であった。
©大陸の影響を受けた新しい文化が北九州を中心に発達し、徐々に東へ広がっていった。
弥生文化
©大陸から水稲耕作が始まった。
©鉄や青銅などの金属器も伝わった。
青銅器(せいどうき)は権威を象徴する宝器、祭具として、鉄器は武器として使われた。
弥生人の生活
©穀物は高床倉庫(たかゆか)に貯蔵された。
©弥生人の住居は竪穴住居のほかに、平地式住居と高床式住居ができ、集団生活の場としての「村」も発生した。
©身分、階級、貧富の差も生じ、各地に多くの小国が誕生した。
小国の分立
©1世紀に作られ、前漢の歴史を述べた『漢書』(かんじょ)の地理志によると、日本は「倭(わ)」と呼ばれ、「倭人(わじん)」の社会は百国ほどの小国に分立されていたという。
©これらの小国はそれぞれ自国の政治的立場を高めるために、前漢が朝鮮半島においた楽波郡に使者を送り中国に朝貢していた。
©『後漢書』(ごかんじょ)の東夷伝(とういでん)によると、紀元57年、倭の奴国(なのくに)が漢の光武帝(こうぶてい)に使者を送り、光武帝から印綬(いんじゅ)を賜り、金印を与えられたと記されている。
邪馬台国と卑弥呼
©『三国志』の「魏志倭人伝」によると、倭の国では2世紀の終わりころ、30ほどの小国が争いを続けていた。
©諸国は「邪馬台国」の女王、卑弥呼(ひみこ)を共同の王にして、争乱を収めた。
邪馬台国を中心とした小国の連合が生まれたのである。
卑弥呼は239年、魏の皇帝に使者を送り、この時、「親魏倭王」の称号と100枚の銅鏡を送られた。
古墳文化
©3世紀後半から7世紀までの約400年間を古墳時代と呼び、古墳文化として栄えた。
©4世紀初頭になると、古墳と呼ばれる大きな墓が作られた。
日本では西日本を中心に、大規模な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が数多く作られた。
大和政権
©3世紀から4世紀にかけて、大和地方(今の奈良県)とその周辺の有力な支配者(豪族)たちは連合して大和政権を作った。
©わが国最初の統一政権が大和朝廷である。
大和政権は4世紀の後半から5世紀までに、関東地方から九州の中部に至るまで、ほとんどの豪族を従えるようになった。
倭の五王と大陸文化の吸収
©中国の『宋書』倭国伝に相次いで五人の倭国王が登場する。
倭の五王は讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という。
©5世紀に、漢字の音で日本人の名や地名を書き表すようになった。
©6世紀には、儒教の書物や仏教の教典、さらに仏像が伝えられた。
推古朝
©仏教の受け入れなどをめぐって豪族の蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)の間に衝突が起こった。
蘇我氏が物部氏を滅ぼして朝廷の実権を掌握し、592年には、対立していた崇峻天皇を暗殺し、最初の女帝推古(すいこ)天皇が即位する。
推古天皇は593年に聖徳太子を摂政とする。
飛鳥(あすか)文化
©仏教は飛鳥にあった朝廷の保護を受けて発展し、飛鳥文化として栄えた。
©6世紀末から7世紀前半までを飛鳥時代と呼ぶ。
©現存する世界最古の木造建築物と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)は607年、聖徳太子によって創建された。
聖徳太子(しょうとくたいし)
©天皇中心の中央集権国家を目指して意欲的な政治改革を行った。
©603年に冠位十二階を制定した。
©604年に憲法十七条を制定した。
©仏教を信仰し、仏教の学問的な研究も始めた。
©607年には隋に小野妹子を遣隋使として派遣し、隋との対等外交をはかろうとした。
大化改新の背景
日本では聖徳太子と蘇我馬子が相次いで死去したあと、その後を受けて大臣となった蘇我蝦夷(えみし)の勢力はさらに強大化し、皇室と対抗する存在となった。
有力な皇位継承者の一人であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)をおって自殺させた。
このような政治状況の下、朝廷では豪族の間に曽我氏を倒し、国政を改革しょうとする気運で唐から帰国した留学生、学問僧によって、中国や朝鮮の動きが伝えられると朝廷では豪族がそれぞれに私地、私民を支配して朝廷の職務を世襲すると言うこれまでの体制を改め、唐に習って官僚制的な中央集権国家体制を打ちたてようとする動きが急速に高まった。
©645年6月12日中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)らが入鹿を暗殺した。
蘇我本宗家は滅んだ。
©その後、孝徳(こうとく)天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子になった。
実権を握った中大兄皇子は氏姓制度時代の大臣、大連を廃止し、左大臣、右大臣を新設した。
中臣鎌足を内臣、唐から帰国した僧を政治顧問として国博士に任じ、中大兄皇子を助けて政策の立案に当たった。
©この年中国に倣って初めて年号を立てて、大化とした。
都を難波に移した。
改新の詔(みことのり)
©646年正月、改新の詔が出された。
孝徳天皇の時代に行われたこれら一連の改革を大化の改新という。
©①公地公民
②中央集権的な政治体制
③班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)
④新税法
白村江の戦いと近江に遷都
©663年の白村江の戦いに敗戦により朝鮮半島から完全に徹兵した。
©その後、唐と新羅の連合軍の来襲の恐れや国内不穏の下に、中大兄皇子は667年都を近江(おうえ)に定め、翌年、皇位に即位し、天智天皇となった。
壬申(じんしん)の乱
©壬申の乱は、天智天皇が死去した翌年、その息子、大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子とが皇位継承をめぐって争った古代最大の内乱である。
©大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝利し、673年即位し天武天皇となった。
大宝律令(たいほうりつりょう)
©文武天皇の701年(大宝元年)に班田収授法などを盛り込んだ政治と行政の新しい仕組みを定めた大宝律令という法律が制定された。
律令の「律」は現在の刑法、「令」は行政法、民法、商法にあたる。
こうして、律令国家としての形を整えていった。
白鳳(はくほう)文化
天武、持統天皇の時代を中心とした7世紀後半~8世紀初頭にかけての貴族を中心とする文化を白鳳文化という
奈良時代(710-794)
•文武天皇の後皇位についた元明天皇は飛鳥地方を離れ、交通のよい大和平野の北部に新しい都の造営を計画し、710年都を藤原京から(奈良)平城京に移した。
以後、都が平城京に移るまでの80年余り奈良時代という。
•平城京は唐の長安に倣い作った町である。
•奈良時代は中央集権的な国家体制が整い国家の富は天皇、貴族に集中し、天皇権力が強大化したという現実があった。
•唐に倣って物質の取引に用いる金銭ー和同開珎(かいほう)をはじめ、しばしば金銭を鋳造した。
政府は鉄製の道具や進んだ潅漑技術を用いて耕地の拡大に努めたほかに各地に鉱山を開発して、養蚕や織物の技術者を地方に派遣して技術の普及に努めた。
•対外的には大陸との交渉を続け、中国に対して、王朝交替で髄に変わった唐にも引き続き使節を送った。
すなわち遣唐使の派遣である。
8世紀にはいるとほぼ15年から20年に一度大規模遣唐使を派遣した。
その後、唐は東南アジアの中心であって、国際性の豊かな文化交流のできるところである。
•遣唐使の一員であるや山上憶良(やまのうえのおくら)や留学生の阿倍仲麻呂や吉備真備(きびのまきび)、玄ぼうらが有名で、特に吉備真備、玄ぼうらは長年の留学生活を終えて、たくさんの優れた唐の文物や新しい知識を持って帰国し、日本の文化の発展に大きな役割を果たした。
聖武天皇の招きで日本に来た高層、鑑真(688-763)らの活動が戒律の普及や仏教の発展に大きく貢献した。
鑑真は奈良の唐招提寺を創建したことでよく知られている。
天平文化
中央集権的な国家が整うにつれて、国の富は中央に集められ、皇族や貴族はこれらの富を背景に華やかな生活を送るようになった。
その結果、奈良時代には平城京を中心に高度な貴族文化が栄えた。
この時代の文化を聖武天皇の時の年号を取って天平文化と呼ぶ、。
天平文化は中央の宮廷貴族を中心とする貴族文化であると同時に、唐の最盛期に文化の影響を強く受けた国際色豊かな性格を持つ文化である。
律令国家の発展とともに国や国土に対する関心が高まり、朝廷がこの国を支配する由来と国家の形成、発展の有様を記すことを目的とした国史編纂の事業は奈良時代に入って、712(和銅5年)に『古事記』(太安万侶[おおのやすまろ])、720年(養老4)に『日本書紀』(舎人親王[とねりしんおう])となって完成した。
遣唐使によって中国の学問、文学が伝えられると、漢文も盛んになってきて奈良時代では漢文詩作りは貴族の教養として重んじられた。
著名な文人として吉備真備らが現れた。
日本最古の漢文詩と言われる『懐風藻』は751年に作られ、漢文詩と相まって日本固有文学である和歌も盛んになり、この時代の作品は『万葉集』(おおともやかもち)にも多く収録されている。
山上憶良、大伴旅人、大伴家持らの歌人が相次いで現れ、それぞれ個性のある歌を残した。
約4500種の歌を集めた一大歌集で漢字の音読みにたくみに合わせて日本語を記する万葉仮名を用いられていることも『万葉集』の特色である。
平安時代(794-1185)
•桓武天皇(かんむ)は政治を立て直すため、794年に今の京都に造営し、そこに都を移した。
平安時代は約400年間続いた。
•仏教界にも新しい動きが起こり、唐に渡った僧侶、最澄と空海は帰国後、それぞれ天台宗と真言宗を開いた。
摂関政治
•9世紀にはいると藤原鎌足の子孫である藤原氏が天皇の権威と結びついて、勢力を延びした。
当時の貴族会社では天皇の外戚であることが重視されたが、藤原氏は代々天皇の外戚となり、天皇が幼いときは摂政とし、天皇が成人すると関白として、政治の実権を握るようになった。
•10世紀後半から11世紀ごろにかけて、天皇に変わって摂政や関白によっておこわなれた政治を摂政政治という。
院政
•道長の子頼道は約50年間、摂関を務めたが娘に皇子の誕生がなかったため、摂関政治は終わり、政治権力は天皇の父親に移った。
•院政とは上皇あるいは法皇が院庁において国政を行う政治形態である。
このうち、白河(しらかわ)上皇、鳥羽(とば)上皇、後白河上皇の三代院政を院政時代という。
律令政治の衰退
中央政府を苦しめ、困らせた。
そのため桓武天皇が律令制を再建するため、いろいろな政策を出した。
•722年百万町歩開墾計画
•723年三世一身(さんぜいっしん)の法
•743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
荘園の成立
•8世紀後半から9世紀頃このようにしてできた荘園を墾田地系荘園という。
•荘園が制度として固まったのは寄進地系荘園が出現してからである。
国風文化
•遣唐使は894年(寛平6年)「唐の疲弊と公開の危険」を理由に廃止された、そして、10世紀になると大陸の文化を移入しょうと言う姿勢に変わって、新しい日本文化が起こった。
豊かな経済を持つ上流貴族と僧侶たちによって、唐風の文化を日本人の生活や好みに合わせようとする工夫がなされた。
こうして生み出されたのが国風文化である。
国風文化の特色は「唐様から和様への転換」であった。
•奈良時代から使われた「万葉仮名」を元にしてかな文字が作られ、11世紀はじめに「ひらがな」や「カタカナ」が広く使われるようになった。
そして漢字を「かな」で書き表す日本独特の文章が生まれ、漢文学とともに和歌、随筆、物語、日記などの文学が発達した。
•それまでは漢字で綴った詩だったが、紀貫之らによって最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」が編纂された。
•かな文字はおもに女性によって書かれ、11世紀初めには紫式部の長編小説「源氏物語」や清少納言の随筆「枕草子」など優れた作品が生まれた。
これらは国文学における最高の傑作とされている、かなの日記は紀貫之の「土佐日記」と最初とするが、宮廷書生の手によるものが多く女性特有の細やかな感情を込めて記されたいる。
•日本10世紀の中ごろになると、朝廷の力が衰え始め、各地で豪族を中心に武力を持つ集団(武士団)が勢力を強めた。
その中で源氏と平氏が特に有力であった。
•平清盛と源義朝が争い、1159年に平治の乱が起こった。
この戦いに勝った平清盛によって義朝の子、頼朝は伊豆に流された。
源氏と平氏
•平氏は朝廷の重職を独占し、武士支配の拡大を図ったため、排除された院、貴族、寺社の強い反感を受け、各地の武士たちの不満も深まった。
•源頼朝や源義仲をはじめ、諸国の武士団が一斉に立ち上がった。
1185年平氏は源義経らの軍隊に攻められ、ついに長門の壇の浦で全滅した。
平安時代
•練習問題
•1、平安時代の都は今の日本の何処ですか。
•2、摂関政治とは何か。
•3、国風文化について簡単に説明してください。
•4、万葉集は誰によってまとめられたのか。
•5、『源氏物語』『枕草子』それぞれの作者は誰ですか。
鎌倉時代(1185-1333)
•平氏による政権は貴族と変わらない政治と専制に対する不満を招き長くは続かなかった。
源頼朝(みなもとのよりとも)(1147年~1199年)や源義経ら(よしつね)が平氏打倒に立ち上がった。
•源頼朝の支配は全国に及び、源頼朝1192年朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉に武士による武家政権としての鎌倉幕府を開いた。
武士が自らの権利や地位を守る武家政治が確立したが、朝廷や太上(だじょう)天皇などの政治力は依然として強かった。
•公武(朝廷と幕府)の二元的支配体制の中で武士の支配が次第に強まった。
鎌倉に幕府が置かれた約140年間を鎌倉時代という。
•鎌倉幕府は封建制度に基づく最初の政権である。
封建制度とは将軍と御家人の主従が土地を仲立ちとして「御恩、奉公」の関係を結ぶ制度のこと。
•源頼朝の死後その子頼家、実朝(さねとも)の時代になると幕府の主導権争いが激しくなり、そして、源頼朝の妻政子の父である北上時政が有力になって、将軍の頼家を廃して、弟の実朝を立て事実上の実権を握るようになった。
これを執権政治と呼ばれ、北上一族が幕府の執権つまり政権を世襲するようになった。
•鎌倉時代から室町、安土桃山、江戸時代まで幕府の権力者である将軍が天皇から政治の大権を預かる形を取ったのである。
鎌倉文化
•鎌倉時代には貴族の伝統文化を受け継ぎながらも、武士や庶民の素朴で質実な気風を反映した新しい文化が生み出された。
一方で鎌倉文化は、大陸からの僧侶や商人によりもたらされた宋や元の文化の影響を受けた。
•特に仏教はそれまでの厳しい戒律などを求める天台宗や真言宗などと異なり、庶民を対象とする仏教として広がりを見せ、浄土宗、浄土真宗、日蓮、臨済宗、曹洞宗が生まれた。
•文学では西行の和歌集「山家集」藤原定家らによって編集された「新古今和歌集」、鴨長明の随筆「方丈記」、平氏の興亡を取材とした「平家物語」、吉田兼好の随筆「徒然草」などの作品である。
練習問題
•1、誰が鎌倉に幕府を開いたのか。
•2、頼朝死後実権を握ったのは誰なのか。
それをなんという政治ですか。
•3、『方丈記』と『徒然草』は誰によってかかれたものですか。
•4、藤原定家の編集したのは何の和歌集ですか。
•5、平家物語は何氏の興亡を取材し、書いたものですか。
•6、日本の幕府時代では実権を握ったのは誰ですか。
南北朝時代(1336-1392)
•鎌倉幕府の力が徐々に衰え始めると、幕府の有力な御家人だった足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府に叛くなど、権力争いは複雑な様相を見せた。
そして、新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府の執権、北条高時らを滅ぼし、1333年鎌倉幕府は幕を閉じた。
•後醍醐(ごだいご)天皇(在位1318-1339)は京都に帰り、院政を廃止し、天皇親政による政治を始めた。
これを建武の新政という。
•しかし、これに不満を持つ足利尊氏は兵を挙げ、京都を制圧した。
光明天皇を擁立した。
1338年に自ら征夷大将軍に任命されて幕府を開いた。
これが北朝である。
•一方京都を逃れた後醍醐天皇は吉野(奈良南部)の山中に立てこもり、正統の皇位を主張した。
これが南朝という。
•南北朝の争いは約60年間続いた。
足利尊氏の孫、足利義満が将軍になるごろには次第に納まった。
この時代を南北朝時代という。
•このごろ倭寇と呼ばれる日本人を中心とする海賊集団が朝鮮半島や中国大陸の海岸で暴れまわる。
•中国では1392年朱元璋が元の支配を抑え、漢民族の王朝である明を建国した。
•朝鮮半島では1392年に李成桂が高麗を倒し、李氏朝鮮を建てた。
南北朝文化
•南北朝時代には全国的な激しい動乱が続く中で時代の転換期に高まった緊張感を背景に歴史書や軍記物語が生み出された。
歴史書には『増鏡』や軍記物語は『太平記』などがある。
練習問題
•1、南北朝の南朝と北朝はそれぞれ誰によって作ったのですか。
•2、日本の南北朝時代には中国はどういう時代ですか。
•3、南北朝時代ではどんな歴史書を生み出されたか。
•4、『太平記』はどんな物語ですか、それはどんな背景で生まれたものですか。
•室町時代(1392-1573)
•足利義満は1392年に南北側の平和を呼びかけ、南北朝の統一を実現して、約60年間の長期に渡る内乱に終止符を打つことに成功した。
統一政権としての幕府を確立した。
義満が京都、室町の邸宅で政治を行っていたことから、室町時代と呼ばれた。
これから15代将軍、足利義満が織田(おだ)信長に追われるまでの約180年間室町時代である。
•幕府の機構も義満の時代にほぼ整えられた。
このとき大名は幕府権力の中枢を占め、重要政務の決定など、幕府の運営に当たった。
•これらに大名の力が次第に強くなって、上の者に代わって、下剋上の世の中になった。
室町後半になると、将軍の力が弱くなり、足利将軍の後継ぎをめぐる争いをきっかけに1467年(応仁元年)応仁の乱が起こった。
有力の大名が一国の支配者になった。
日本は戦国時代に入った。
これが約1世紀に及んだ。
この乱に将軍の権威はまったく失われ、戦乱はその後も地域的争いとして全国に広がっていった。
そしてこの争乱の中で幕府体制などの秩序が動かされ、破戒された。
•室町文化:
•室町文化は貴族文化と庶民文化、大陸文と伝統文化など、広範囲に文化の融合が進み、民族的文化として成熟していった。
•この時代には8代将軍、義満は京都の北山に壮麗な新邸をつくった。
この別荘として作られた金閣寺(鹿苑寺ろくおんじ)は伝統的な寝殿造り風と禅宗寺院を折衷した建築で、その文化の特徴をよくあらわしている。
この時代の文化を北山文化と呼んでいる。
•北山文化で開花した室町文化はその芸術性が生活の中に取り込まれていき、新しい独自の文化として広く根付いていった。
•将軍義政応仁の乱後、京都の東山に山荘を造り、そこの義満に習って、銀閣を立てた。
この時期の文化は東山山荘に象徴されるところから東山文化と呼ばれる。
この文化は禅の精神に基づく簡素さと伝統文化の幽玄、わびを精神的な貴重としていた。
銀閣の下層及び東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)に見られる書院造は近代和風住宅の様式の元をなすものであった。
•室町時代には民衆の地位の向上により、武士や公家だけでなく、民衆が参加し楽しむ文化が生まれたのも大きな特徴である。
日本の伝統文化としての能、狂言、華道(生け花)茶道などはこの時代に形を整え、日本の伝統文化としての基盤を築いていった。
練習問題
•1、誰が南北朝を統一し、統一政権としての室町幕府を確立したのですか。
•2、金閣寺と銀閣寺はそれぞれ誰によって造られたものですか.それぞれの特徴は何ですか。
•3、現代の日本式住宅建築の元になっているのは寝殿造りですか。
書院造ですか。
第四章 近世
•安土、桃山時代(1573-1603)
•16世紀の始めに通商の目的でポルトガルの貿易船が中国を訪れたが、たまたま1543年暴風のために、日本の種子島に漂着した。
これが日本に第一歩を記した始めてのヨーロッパ人である。
このとき伝えられた鉄砲は戦国大名たちの注目するところとなり、従来の刀、槍、弓を武器とした戦術を大きく変えることになった。
有力な戦国大名のうち織田信長が将軍、足利義昭を倒して全国統一事業に乗り出したが、信長は安土に安土城を築き、勢力を広げ、京都から近畿、東海、北陸地方を支配した、しかし、1582年に京都の本能寺で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に殺された。
これを「本能寺の変」という。
•その後を継いだ豊臣(とよとみ)秀吉は明智光秀を討ち、さらに、北上氏政(うじまさ)を滅ぼし、全国統一を成し遂げた。
信長の夢を実現した。
•秀吉は幕府を開かずに朝廷から関白という地位に任じやれることによって絶対的な権力得お手に入れ、ここに戦国時代は終焉した。
•信長と秀吉が政権を握っていた約25年間(1573年ー1598年)を安土桃山時代という。
「安土」の名は信長が築いた安土城から、そして、「桃山」は秀吉が晩年に京都の伏見城(ふしみじょう)を築いて住んだが、その城跡に桃の木が植えられ、その地を桃山と呼ぶようになったことからつけられた。
(二人の姓の頭(かしら)文字から織豊時代ともいう。
)
•秀吉の時代はキリスト教は国家体制の妨げになるとして、大名らのキリスト教の入信を許可制にしたり、宣教師の追放を指令したりしたが、しかしその弾圧は不徹底に終わり、キリスト教は日本に各地に広がって行った。
•16世紀、中国を中心とする伝統名国際秩序が明の国力の衰退により変化しつつあった。
秀吉は日本を中心に東アジアの国際秩序を作ることを志した。
台湾、朝鮮などへ服属と入貢を求めた。
•桃山文化
•安土桃山時代の文化を桃山文化という。
この時代には戦乱が収まり、富と権利を集中した統一政権の下に各地の経済、文化が交流し、また海外との往来も活発であった。
桃山文化を象徴するのが城郭建築である。
安土城、大阪城、伏見城などの城郭が天下統一した勢威を示す雄大、華麗なものであ
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